今日から俺の新しい生活が始まる。まずは朝食を食べ終えたロヴィーノとフェリシアーノちゃんを教会まで送り届けると、屋敷にトンボ帰りして屋敷の業務に従事した。
屋敷内の掃除、洗濯は菊の担当だそうだ。補佐として俺は菊の業務をひたすら頭に叩き込む。正直想像以上に忙しい。
掃き掃除が終われば拭き掃除。それが終わればベッドメイキング。次に洗濯。慌ただし過ぎるぜ!これを毎日こなす悪魔はマジですげえ!
昼食時に入るとフランシスとアルフレッドが食事を始める。俺と菊はボスが不在だからその場で待機する必要も無く、広い庭に出て戦闘訓練をする事にした。
ジジィはジャケットとネクタイをベンチに置いた。白のワイシャツの袖を少しだけ折り懐中時計を眺めている。
俺もジャケットとネクタイをベンチに置いてジジィに向かい合う。
「今から2時間程訓練としましょうか。訓練が終わればお迎えの時間ですからね」
懐中時計を黒のベストのポケットに片付けると訓練メニューを提案してきた。
「今からこの庭を50周、腕立て伏せ200、腹筋200、スクワット200の3セットをしましょうか。その後組手をしますよ」
「ちょっと待て!何だそのメニュー!?」
そんな量やった事無え!悪魔か!…あ、こいつ悪魔だった。
「さあ、グダグダ言わないで、その量を1時間以内には終わらせて下さいよ?初日ですから軽めにしているんです。早くしないと、組手の時間が無くなりますよ?さあ!スタート!」
パンと手を叩きスタートと告げるジジィはやっぱり悪魔だ。
「クッソがあぁ!!!!」
我武者羅に走り出した俺に向けて後ろから「クソはおやめなさい!」と声が掛かるが、それどころじゃねえ!組手の時間が無くなる前に急いでこの悪魔の様なメニューを終わらせてやるぜー!
空を飛べば楽だが、あの悪魔は何処で見ているか分からない。そんなズルは俺のプライドが許さねえから絶対やんねえけどな!褒めろ!讃えろー!!

しかし、屋敷の広い庭は本当に広い…!何だこの広さ!
今は2セットを終えて漸く3セット目に突入だぜ…。俺の心臓と肺が爆発しそうだ。あのジジィは呑気にベンチに座って読書してやがる!何の為に上着脱いで袖折ったんだよ?一緒に訓練しねえのか!?クソジジイめ!!憎々しげに睨むとジジィは和かに微笑む。
「ほら、後32周ですよ?急いで下さい」
「〜っ!わあってるよクソジジイが!」
「クソはおやめなさい!不憫君!」
「不憫じゃねえ!!!」
マジで苛立つな!あのクソジジイ!いつか絶対泣かしてやる!

俺がやっと49周目にかかった時、ベンチに人影が増えていた。
ジジィの隣でニコニコと微笑む男。
随分ジジィと親しそうな雰囲気にあの男が何者か気になる。力を振り絞りながら最後の走り込みを終えてベンチの前にゼーゼーと立つ。
「お、終わった、ぜ!」
「はい。お疲れ様でした。次は組手の時間ですよ」
ジジィは「よいしょ」とベンチから立ち上がって肩を鳴らすが、待ってほしい!今息を整えてんだ…!正直苦しい!
「菊ちゃん、新人が死にそうな顔してんで?」
ベンチに座っていた男がニコニコとジジィに話し掛けた。
おい。菊ちゃん?何だその馴れ馴れしい呼び方。
「おや、堕天使ですから死にませんよ?」
「あちゃー。菊ちゃんの扱きはキツイでえ?頑張りや?新人くん!親分がおまじないしといたろ!ふそそそそ〜」
笑顔を振り撒き、ふそそと宣う男に思わず眉間の皺が寄ったのは仕方ない。ふそそって何だよ?
「彼はアントーニョさん。庭師で悪魔です。アントーニョさん、彼が新人のギルベルト君です」
こいつがアントーニョか!菊の言う通り、友好的な人物の様だ。
「よろしゅうな。親分って呼んでもええよ?」
「よろしく。ギルベルトだ」
親分と呼べと言ってくるが、めんど臭そうな雰囲気にスルーしておく。
「ほな、親分今から花壇の草引きしてくるわー。また後でな」
和かにアントーニョは去って行った。悪魔という雰囲気と人相じゃ無えけど、目の前の悪魔も外見では悪魔には見えない。油断すると後が怖えな。要注意だ。
「では、組手をしましょうか。能力を使っても良いので全力でかかってきなさい。貴方の実力を見極めて今後の練習メニューを考えます」
は?全力?能力を使って?そんな事して大丈夫なのか?
「大丈夫なのか?って顔ですね?舐められたものです。伊達に900年生きておりませんよ?貴方の様な柔なウサギちゃんにおくれをとる私ではありません」
柔なウサギちゃん…だと?俺はまた馬鹿にされたのか?…上等だ。
「後で吠え面かくなよ!クソジジイ!!」
俺は両手両足を鋼鉄化してジジィに殴り掛かる。ブオンッと音を立てて繰り出した拳はジジィの残像を掠めた。このジジィ速え…!
すかさず今度は右膝でジジィの鳩尾を狙うがジジィの左手に軽々と止められた。
今度はジジィの後頭部目掛けて右肘を振り下ろすが視界からシュッとジジィが消える。
今度は背後に現れた気配に右足を軸に左足で回し蹴りを繰り出すが、しゃがみ込んで躱したジジィが俺の顎目掛けて掌底を撃ち込んでくる。咄嗟にジジィの掌底してくる腕を掴んで巻き込む様に地面に伏せ込む。
今度は逃がさねえ様にガッチリとジジィの腕を脇に抱え込んでやる。
重量でいえば圧倒的に俺に軍配があがる。案の定ジジィの身体は簡単に倒れ伏した。
地面にジジィの腕を力任せに叩き付けて押さえ込んだ際、ボキッと嫌な音が鳴った。

やべっ!やり過ぎた!

慌てて、手を離してジジィの様子を伺った。今の絶対折れただろ?
「わ、悪い。大丈夫か?」
「はぁ。大丈夫ですよ?まあ、微妙な折れ方ですねぇ」
起き上がったジジィは右手をプラプラとさせて無感情に見ている。その無感情に折れた右手を眺めているジジィにゾワッと鳥肌がたった。焦りも驚きも痛みさえ無い無表情。何だよ…コイツ。
「…痛く無えのかよ」
「痛いですよ?直ぐに治りますから問題ありません」
ジジィは自分の折れた腕を更にボキンッと折った。その無表情は1つも変わらない。俺の頬に冷や汗が流れた。
このジジィが心底怖いと産まれて初めて恐怖した。この俺が…!
「どうしました?…あぁ、中途半端に折れると治りが遅いので、綺麗に折ったんですよ?綺麗に折った方が治りが早い上綺麗にくっ付きますから」
ジジィが何でも無い様に微笑む。
さっきまでの無感情な雰囲気では無くなった事に僅かに安堵した俺は、何だか堪らなくなってジジィの頭をスパンッとはたいていた。
何でかなんて俺にも分かんねえ!もっと自分を大事にしろとか、痛いならもっと痛がれとか言いたい事は沢山あったのに、いざとなれば何も言えなかった。
「…突然何です?人の腕を折った上に叩くなんて」
「……馬鹿やろ。この…、この馬鹿野朗!だからクソジジイなんだよ!」
「まあ!今度は罵倒ですか?酷いです」
「…っうっせーよ!馬鹿!」
ジワジワと怒りに顔が熱くなってきやがる。そんな俺を見てジジィはフッと微笑んだ。それは優しい笑みだった。
「他人の為に、ましてや悪魔の為に心を痛める等、貴方はやはり天界に属していただけありますね」
クスクス笑うジジィに悔しくなった。このジジィ何時もの意地悪具合は何処行った!?優しく微笑むな!絆されねえからな!
ケッとソッポを向いてベンチに有るジャケットを掴むとジジィの肩に掛けてやった。
「おや?もう組手は宜しいので?片手だけでも問題ありませんよ?」
「ハンッ!手負いのジジィに本気出せる訳無えだろ」
「変なところで騎士道を見せますねぇ。手負いだからこそ追い討ちをかければ良いでしょうに」
「そんなんで勝っても嬉しく無えよ!正々堂々と勝負してこそなんだよ!」
今までだって手負いの奴相手に喧嘩なんかしなかったし、奇襲みてえな卑怯な事も嫌いだ。
そんな俺をジジィは黙って見上げていたと思えば、急に表情を消した。
「いつか…いつかそれが貴方の命取りとなります。同情で攻撃の手を緩めると自分の首を絞めますよ?今後はその考えは捨てて下さい。貴方がこれから粛清するのは天界には居ない薄汚れた心を持つモンスターです。肝に命じておきなさい」
その仄暗い目を前に俺はゴクリと唾を飲み込んだ。俺に向けての言葉なのに、その目は俺では無い誰かを見ている様だ。
「さ!今日は此処までにしましょうか?」
さっきまでの表情を打ち消して穏やかに微笑んだジジィに促されてジャケットを手に小柄な背中を追いかけた。

プラプラと右手を揺らしながら、痛みを感じさせない様な歩き方に俺の眉間はまた知らぬ間に皺を刻んでいた。



今日も今日とて、屋敷の仕事に従事し、合間に地獄の訓練を受けていた。
もう1ヶ月程になるだろうか。今では過度なトレーニングにも慣れた。
いつもなら、ギルベルトが屋敷の外周を走っている際、菊はベンチに腰掛けて本を読んでいる。
だが、今日はその菊の隣にボスの双子の弟フェリシアーノが座っていた。
「ギルベルトー、頑張ってねー」
フェリシアーノからの応援を受けて、ギルベルトのヤル気は格段に上がり、いつもより速いペースで外周を回っている。
「…単純な方ですよねぇ」
「ギルベルトって犬みたいだよねぇ」
のほほんとクルンを揺らしながら、フェリシアーノはギルベルトを犬に例える。
「ふふ、大型犬といった所でしょうか?まだまだ駄犬ですが、調教次第によっては、彼はとても優秀な執事になりますよ?」
「へぇ、菊の高評価なんて滅多に無いよね?そんなに期待してるんだね〜?」
「ええ。きっと私以上に役に立ってくれます」
菊の言葉にフェリシアーノは俯向く。
「…俺は菊が良いよ」
弱い力で菊のスラックスを掴むフェリシアーノに菊は優しく微笑んだ。
「…フェリシアーノ君はいつまでも甘えん坊ですね」
フェリシアーノの頭を優しく撫でてやると、フェリシアーノは眉間を寄せたまま、菊の膝に頬を乗せて横に寝転がった。
「…懐かしいな。菊の膝枕。あったかいんだ〜」
「ジジイの膝で良ければいつでもどうぞ」
柔らかな茶髪を撫でてやるとクルンがハート型になる。
微笑ましく思いながら撫でていれば、そこに外周から戻ったギルベルトが流れる汗を手の甲で拭いながらやって来た。
「お、終わったぜー!…ってか、フェリちゃんよ、ジジイの膝枕より俺様の膝枕のが気持ち良いと思うぜ?」
ギルベルトはフェリシアーノに向かい、己の逞しい太腿をパシパシと叩いて見せるも、フェリシアーノは嫌そうに顔を顰めた。
「ヴェ〜、男のしかもムキムキの膝枕とか絶対嫌だよ〜。気持ち悪い」
ズバッと切り捨てるフェリシアーノにギルベルトはスンスンと鼻を鳴らす。
「ちぇー、ジジイだって男だぜ?ジジイは良いのかよ?」
菊は中性的な顔をしていても、れっきとした男だ。しかも悪魔。
「菊は俺たちのマンマだから良いの!温かくて良い匂いがするし大好きなんだ〜!」
ヴェ〜と菊の膝枕を堪能するフェリシアーノを菊は仕方ないですねぇ。とばかりに微笑む。この2人の周りには魔族とは思えない程の花が飛んでいるように思える。
目の前の光景は疲れた者の心を癒すだろうが、何故かギルベルトは内心モヤッとする気持ちに首を傾げる。
フェリシアーノは菊の膝に頬を擦り寄せてはヴェ〜と機嫌良さげにしていた。頬が不格好に押し潰されている。
そんなに気持ち良いのか?とフェリシアーノが太鼓判を押す菊の膝枕を一度試してみたいという好奇心に満ちた。
産まれてから膝枕など体験した事が無いのだ。
「なあジジイ。俺様にも膝枕してくれよ」
ギルベルトの言葉に菊とフェリシアーノが固まる。
「…善処します。また今度」
「そんな直ぐに拒否しなくても良いだろうが!!」
思わず菊の頭に手刀をして抗議した。ドスッと良い音がする。
「老人虐待も大概になさって下さいよ」
「そりゃこっちの台詞だ!俺様のハートが傷付いたぜ!手刀なんざ可愛いもんだろうが」
唇を尖らせてそっぽを向くギルベルトに菊は吹き出しそうになる口元を抑えた。
「ふっ…。では、貴方が一人前の執事となった暁にはご褒美として膝をお貸ししましょうか」
「マジか?!約束だかんな!」
拗ねていたと思ったら、言葉一つで忽ち表情を変えてみせるギルベルトに菊もフェリシアーノもとうとう笑ってしまう。
そんな2人に「笑うなよ!」と屋敷内にも聞こえる程ギルベルトが声を荒げた。


その頃屋敷内では、午後のお茶会が開かれていた。
屋敷内にまで響いてきかギルベルトの声にフランシスは小さく笑う。
「あら?ギルちゃんまた遊ばれてんのかな?」
「いつもの事やん?ギルちゃんイジメ甲斐あるからなぁ」
アントーニョが摘み取った花を花瓶に活けながら、のほほんと頷く。
「そんな事よりフランシス!オヤツはまだかい?」
「お前は…しょうがないね!ったく」
「フランシス、俺にもオヤツ寄越せよこのやろー」
「はいはい。ボスの仰せのままに」
ファミリー内のお子様アルフレッドが目を輝かせておやつを催促し、それにボスが便乗する。
仕方ないお子様達だ。とフランシスは若干呆れを滲ませつつも嬉しそうに席を立った。
「ロヴィ、オヤツ食べたらシエスタしよか?親分が添い寝したるで?」
「いらねえ!1人で寝ろハゲ!」
「まだハゲてへん!!!」

アントーニョの叫びもまた屋敷内に大きく響き渡ったのだった。
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