秋も深まり、山の紅葉も彩りを増した頃の事だった。
村長が心筋梗塞により急遽この世を去ったのだ。
後任にと選ばれたのが村でも年長に当たる元保安官の翁。
だが、この元保安官の翁には占術等という能力が無く、反対する村人も一部居たのだが、残念ながら村人の誰も占術が出来ない。誰がやっても同じだろう。ならば正義感溢れ、信頼のおける者が最適だと声を上げた者が過半数を占めた。
先陣切って声を上げたのは、菊の祖母クレアだった。


新しく村長となった翁は皺だらけになった手を見下ろし、大きな溜め息を吐く。
自宅の庭に設置した木製のベンチに背を丸めて座る姿には、どんよりとした哀愁が漂う。
「…儂に務まるなんぞ到底思えん」
自分には村を率いていく自信も占術をする能力も無い。代々村長には占術を得意とする者が選ばれてきただけに不安が大きい。
翁、マルコス・ヴィッツは碧色の瞳を物憂げに揺らした。
「マルコスさん、こんにちわ」
そこへ美しいソプラノが響き、マルコスはそっと瞳を上げる。
そこには綺麗な黒髪をリボンで結い上げた娘、菊が大きなカゴを抱えて微笑んでいた。
「おお…菊さんか。こんにちわ」
マルコスは手招きで隣に座る様に促すと、菊は「お邪魔しますね」と声を掛けてゆっくり腰を下ろした。
菊の足元には金ちゃんと呼ばれている珍しい色合いの子犬が大人しく伏せて目を閉じている。可愛らしい子犬の姿に、マルコスは優しく瞳を細め、遠くに聳える山を眺めた。
「菊さんは大きな荷物を持って一体どうしたんじゃ?」
「マルコスさんに祖母からお届け物をお持ちしたのですよ」
大きなカゴを膝に乗せた菊の言葉にマルコスは「はて?」と疑問の瞳を菊に向ける。ニコニコと頬を染めて得意気に笑む姿が可愛らしい。
「儂に?」
「はい!」
すると菊はカゴの中身から取り出した見事な毛糸の編み物を広げて見せた。
深いブラウンの色に明るいベージュの木と鹿の模様が配列良く編まれており、思わず感嘆の声が漏れてしまう。
「この膝掛けをマルコスさんに差し上げたくて」
「ぉお…!こんなに見事なモンを儂に?」
菊から膝掛けを受け取れば掌にじんわりと熱が移り、毛糸がその熱を閉じ込めてくれてとても温かい。
「ありがとう。クレアにも礼を伝えておいてくれるかい?」
クレアとは菊の祖母の名である。
「はい。勿論です」
マルコスは温かい膝掛けを膝に乗せて「のう、菊さん」と静かに声を出す。
菊の視線を横面に感じながらマルコスは遠くの山を眺めたまま、眉を下げた。
「爺さんの独り言じゃが、ちょっとだけ聞いてはもらえんか?」
菊は憂いを帯びたマルコスに目を丸くするも頷く事で聞く体制になる。足元の金ちゃんは前足に顎を乗せて目を閉じ、寝る体制だ。
「儂には占術やら統率力やら何の力も魅力も無い、ただの爺さんじゃ。そんな爺さんに村長が務まるのか…いや、無理じゃろうな。厄災が起ころうにも儂にはどうする事も出来ん…。占術を使い熟す者の育成が急務じゃて…」
マルコスは不安な胸の内を菊に打ち明け、見えない己への重責に眉を寄せる。
菊はマルコスの横顔を静観していたが、その視線をマルコスと同じ様に高く聳える山の頂上に向けた。
「…私には占術というのがどういったものか分かりません。あった方が良いのかもしれません。でも、マルコスさんは占術の有無に関係無く皆さんから人望で選ばれた方。私には村長にとって人望こそが必要なのではと思うのです。村人の為に思いを馳せる事が出来、村長の為に何かを成し遂げようとする村人の気持ちが重要だと思うのですが…」
菊の素直な吐露にマルコスは伏し目がちだった碧色の瞳を見開いた。
「上手く言えないんですけど、マルコスさん程、村長に適した方は居ないんです」
太陽光を反射して優しく光る琥珀にマルコスはホッと息を吐き出す事が出来た。肩にのし掛かる重責が軽くなった心地になる。
「…あっ!え、偉そうにすいません!」
菊は突然黙り込んだマルコスに気分を害したのかと不安になり、慌てて謝罪を述べたが、そのマルコスの表情は予想に反して驚く程に優しかった。
「…いや、ありがとう菊さん」
「?…あ、え??…はぃ」
マルコスからの礼に疑問符ばかりが浮かぶ菊の姿に、マルコスは久々に笑う事が出来た。
「はは。残り少ない生涯じゃ、もう一踏ん張りやってみようかの!」
「!はい。応援しておりますよ!」
「ふむ。では儂は未来を担う若者の恋を応援しようかの!進展はどうじゃ?」
「ん?…恋?進展??」
マルコスの満足気な笑みに菊は疑問符を更に浮かべる事になったが、マルコスの次に放たれた言葉で赤面する事態になる。
「なんじゃ?もうとっくに村のモンは知っとるぞ?ギルベルトと早よう結婚して子供の顔でも見せとくれ。クレアも喜ぶじゃろうに」
「ッ!?」
赤面して顔を伏せる菊に、何とも初々しい姿かとマルコスは声を上げて笑う。
足元の子犬が何事かと顔を上げたが、子犬の目の先では赤面して顔を覆い隠す主人と隣で大笑いする爺さんの姿。
なんだと鼻息を1つ零して、子犬はまた目を伏せた。




「やっほー!ギル!」
「久々やんなぁ!」
暖かく差し込む陽光を浴びながら、畑作業もひと段落した頃、孤児院の門には見慣れた男2人の声が木霊した。
ギルベルトは頬に流れてくる汗をシャツの裾で拭いながら軽く手を挙げ、悪友であるフランシスとアントーニョの元へ向かう為足を運んだ。
白いシャツは畑の土で汚れてしまっているが、ギルベルトは気にする素振りも無くゴシゴシと止まらない汗を拭う。
遠くで子供達が道具を片付けながらキャッキャッと騒いでいるのを聞きながら、3人は畑を見渡せる木の根元に腰を下ろした。少しだけ冷たく感じる風も暖かい陽光の元では快適に思える。
「珍しいな、お前らが此処に来るなんてよ」
ギルベルトの疑問にフランシスとアントーニョはニヨニヨと気味の悪い笑みを浮かべる。直感的に何か良くない情報でも仕入れて来たのかと悟った。
「いやぁ、それがさぁ〜」
「菊ちゃん別嬪さんやんなぁ」
2人同時に喋り出した事にギルベルトは眉間に皺を刻んだ。
しかも菊に関しての事を言って来るのだから、これは揶揄いに来たと断定出来る。
「ンだよ突然。用が無えなら帰れ!俺様超忙しいの!」
シッシッと手を払って見せれば、2人は顔を見合わせて肩を竦めた。何だよその反応…。とギルベルトが胸中で唇を尖らせていればフランシスが徐に顎髭を撫でながら「あのさー」とギルベルトを見据えた。
「俺たちって幼馴染みでしょ?だからギルの恋を応援してあげたくてさ」
フランシスの言葉にギルベルトは一瞬歓喜に震えそうになったが、良く良く考えてみればフランシスもアントーニョも面白がっているだけの様に思えてならない。
昔馴染みだからこそ性格は熟知しているつもりだ。
ギルベルトの胡乱気な眼差しに気付いたフランシスとアントーニョは酷いと言わんばかりに両手で顔を覆い隠す。
「ギルってば酷いわ!」
「親分の親切心やんかー!」
「うるせーな。そう言うならせめて口元を隠せ」
ギルベルトが指摘した通り、2人の口元は可笑しいとばかりに釣り上がっていた。
「おっと…!お兄さんとした事が」
やっぱりかとギルベルトからは大きな溜息が溢れる。
「で?一体何の話をしに来たんだ?」
ギルベルトは雑草を引き抜きながら唇を尖らせる。そんなギルベルトをフランシスとアントーニョは両サイドから覗き込むとニンマリと笑みを浮かべた。
「菊ちゃんがさ、今フリーな訳じゃん?俺の職場の奴等がさ、菊ちゃんと知り合いなら紹介しろって煩くってね」
「そうやねん!親分も菊ちゃん紹介せぇやら、家教えろやらで毎日敵わんわぁ」
「げ…。お前ら、まさかとは思うが菊の事紹介なんかしてねぇだろうな?」
菊の人気は痛い程知っているが、まさか自分の及び知らぬ所でまで噂が広がっているなんて意外だ。
ギルベルトの鋭い眼光に悪友2人は「そんな事してないから!」と慌てて身の潔白を主張する。
「じゃあ何しに来たんだよ?」
まさか菊がモテてる事を態々言いに来たりはしないだろう2人に何の用だと疑問に思う。
「はぁ…。だから!ギルにさっさと菊ちゃんをモノにしろって応援に来たんでしょうが!」
「…え」
何故この2人がギルベルトの淡い恋心を知っているのか、そして何故相手が菊だと当たり前の事の様に話しているのか。いや、間違ってなどいないが、誰にも打ち明けたりしていないこの恋心を何故?とギルベルトはグルグル頭の中で疑問を繰り返すが答えは出そうにない。
「ギルちゃん、何でや?って顔しとんなぁ」
アントーニョからの指摘に思わず口元を掌で覆い隠すが、2人には真っ赤に染まったギルベルトの顔色が丸見えなので無意味だ。
「ほんまは親分が菊ちゃんの恋人になりたかってんで?そんでもあの人に頼まれたら諦めなしゃあないやん?」
「ほんとそれ。ギルには勿体無いよねぇ。お兄さんだって狙ってたのにさ」
「は?あの人??って誰だよ?」
目を丸くするギルベルトにアントーニョとフランシスは声を揃えて「クレアさん」と答えた。
「な!?婆ちゃんかよ!!」
確かに菊の祖母であるクレアには菊への想いも話してあるし、ギルベルトが菊に対して好意を持っているのだと昔から知っていたのはクレアだ。
だがそのクレアがこの2人に応援を頼むとは思っても無かった事だ。
「ってか、何で婆ちゃんがお前らに…」
「ん?そりゃ俺たちがギルと菊ちゃんの事を知ってるから。じゃないの?」
「それにやな、いつまでものんびりしとったら横から掻っ攫われてまうで?」
アントーニョの言葉に不安を覚え、ギルベルトはグッと言葉に詰まる。
「お前ね、菊ちゃんが毎日アプローチ受けてるの知ってる?知らないでしょうね?」
今度はフランシスの言葉に不快感を覚えた。毎日アプローチを受けているなんて。
「昨日なんかマルコスの爺さんが鼻の下伸ばして菊ちゃんとベンチに並んで座って楽し気に喋っとったし、今朝は珈琲屋の息子が菊ちゃんと並んで歩いとったで?そりゃもう恋人みたいに笑い合っとったわ」
「ギル、呑気に構えてたらヤバイんだよ?だから俺たちが応援に来たの!クレアさんが俺たちに頼んだのも納得だろ?」
菊が他の男と微笑み合うなんて嫌だ。並んで歩くのも、隣り合って座るのも全部自分じゃないと嫌だ。菊への独占欲が激しく悲鳴をあげる。
ギリッと歯軋りしたギルベルトに悪友2人は口角を上げた。
「そこでお兄さんが噴水広場に菊ちゃんを呼び出してるからさ、ちゃんと自分の気持ち伝えてきな?午後3時ね。遅れんなよ?」
ギルベルトの肩をポンと叩き、フランシスはウィンクして見せた。
「…ん。分かってる。ありがとな」
これはチャンスだ。これを逃したら、多分気持ちを伝えるタイミングが掴めなくなる。一緒に住みたいと思っても、友達としてのルームシェアを望んでいる訳じゃない。菊とはいずれ家族に、夫婦になりたい。
自分の菊への気持ちを伝えないと前に進めない。
誰かに菊の気持ちを盗られる前に、自分の腕の中に囲っておきたい。自分に繋ぎ止めて一生離したくないのだ。

立ち去る悪友の背中を見送りながら、ギルベルトは決心した様に拳を握り締めた。



昨日、新しく村長に就任したマルコスの元を訪れていた菊は、その時の会話を思い出しただけで赤面してしまう程に動揺しているのを自覚した。
「ぅう…まさか皆さんがご存知なんて…!」
またボボボッと音が出そうな程赤面した菊は、ダイニングテーブルに突っ伏した。足元では心配そうに金ちゃんがスピスピと鼻を鳴らして見上げているが、今構ってやれる状態では無い。
菊のそんな様子を眺め、祖母であるクレアは心底楽しいと言わんばかりに微笑んでいた。
「ふふ。マルコスにまで言われちゃ、そろそろ腹を決めないとねぇ」
「!お、お婆ちゃんたら…!そんな…私の一方的な想いかもしれないですし…」
赤面したかと思えば今度は青くなる菊の表情にクレアは苦笑する。
「ネガティブな子だねぇ。まったく…、いいかい?お前は私自慢の娘!村一番の美女なんだよ!」
フンと鼻息を鳴らす祖母に菊は眉を下げたまま、祖母を窺い見る。
「…それは親の贔屓目と言うモノでしょう?」
「鏡を見て…と言ったところで一緒だろうねぇ。鈍感な子だよ」
はぁ。と大きく嘆息するクレアに合わせてなのか、足元の金ちゃんまで大きな鼻息を鳴らす。
「いいかい?ギルちゃんの菊に対する想いは本物だよ?その想いを疑っちまうとギルちゃんが可哀想だ。真剣によく考えてごらん」
祖母は人差し指を一本、菊の胸元に向けて指し示す。
「頭で考えるんじゃないよ?ココで考えて、感じるんだよ?」
「…はい」
菊はそっと己の胸元を掌で抑えてみた。
自分の想いはハッキリしている。ギルベルトが好きだ。ずっと側に居たいと思う程に好意を寄せている。
一緒に居る時も、ギルベルトが笑った時も、ご飯を食べている時も、作業をする真剣な表情もずっと見て居たいと思う。
そのギルベルトが菊に向ける眼差しは暖かく優しい。だが、そこに菊と同じ意味での好きがあるのかと問われれば、自信が無いのだ。
ルートヴィッヒに向ける優しさと菊に向ける優しさは同じ様で少し違うと感じる時がある。
ギルベルトの懐に入れた者への無償の愛情。それを菊に向けてくれてはいない様に思える。それを享受するのは庇護対象の弟であり、唯一の肉親であるルートヴィッヒなのだ。身内と同じ舞台に立とうなど烏滸がましいと浅はかな自分の想いに嫌気が刺す。
一言、ギルベルトから「好きだ。愛してる」と言葉にされないと不安で仕方ない。
贄嫁として同情されていた訳では無い事は分かるのだが、ギルベルトの本心は何処にあるのか、ここに来て己の恋愛経験の低さに辟易となる。
眉を下げた菊を見兼ねたのかクレアは冷たくなったハーブティーを飲み干すと「菊」と優しく声を掛ける。
「私はね、菊には幸せになってもらいたいんだよ。贄嫁だなんて運命に左右される事がもう無いんだ。菊は幸せになる権利がある。自由なんだよ。自由に行動して、恋をして、好きに生きていけるんだ」
優しく眇めた翡翠の眼差しはキラキラと潤んでいる。
クレアの想いが痛い程に伝わり、思わず菊の鼻頭がツンとした。
「お婆ちゃん、ありがとうございます」
「ふふ。菊の幸せが私の幸せだよ。さ、そろそろ約束の時間だね。気をつけて行っておいで」
「あ、フランシスさんとアントーニョさんを待たせてしまいますね。急がないと…」
時計を見上げれば約束の時間の5分前。
菊は慌てて席を立つとティーカップをキッチンに運び、クレアに向かって「行ってきます」と笑みを浮かべる。
ダイニングからコクリと頷き、微笑む祖母の顔は慈愛に溢れて、とても優しかった。





広場に辿り着けば、噴水の淵に腰掛けたアントーニョが笑みを浮かべて菊を迎えてくれた。
手招きされてアントーニョの元へと向かえば、フランシスの姿が無い事に頭を捻る。
「お待たせしました。フランシスさんは?」
「そない待ってへんで?フランはコーヒー買いに行っとる…あ!来たみたいやな」
アントーニョの指差す方向にはフランシス。そしてフランシスの隣にはギルベルトが居た。
さっきクレアとギルベルトとの事を話していただけに少し気持ちが落ち着かなくなる。
「…え?あれ!?ギルベルト君!?」
そわそわする菊に笑い、アントーニョは菊の腕を引き、隣に座らせる。
「まあ落ち着きぃ?まだこっち気付いとらんな」
アントーニョはどこか楽し気に遠くに見える2人を観察する。
菊もアントーニョに倣い黙って2人を観察する事にした。
するとフランシスが立ち止まればそこに2人の若い女性が現れ、4人で話始める。
「あー、フランもギルちゃんもモテよるからなぁ。特にギルちゃんは人気高いねんで?」
アントーニョの呟きとも取れる言葉に菊はギョッとアントーニョを見上げる。
アントーニョは横目でチラリと菊を見下ろすと口角を上げた。
「知らんかった?ギルちゃん中身はあんなんやけど、見た目だけやったら女の子が寄って来んねん。今話しかけとる金髪の方な…」
アントーニョの目線が前に戻り、菊は不安に思いながら目線を前に向けた。
ギルベルトに話しかけているのは金髪の綺麗な女性だ。煌びやかに見えるワンピースに可愛らしい髪飾りまで見える。
あんな美女に話しかけられたら、誰だってドキリとするかもしれない。
「あの金髪の子な、ずっとギルちゃんの事狙ってんねん。アプローチするんもほぼ毎日やで?」
「ッ!」
菊は自分の服を見下ろした。
あの女性の様に可愛らしいリボンもフリルも派手な装飾が無い。淡いピンク色のワンピースも情熱的な真紅のワンピースも持っていない。
普段畑仕事で鍬を振るう手はマメやタコでゴツゴツしているし、お洒落だってどうやったら良いのかも、化粧品だって知らない。
この時村の娘とは次元が違うのだと初めて思い知らされたのだ。
そう考えが至ると急に自分の見目が恥ずかしく思えてくる。
「…あんな綺麗な子やったら、ギルちゃんも恋人にしてまうかもなぁ」
アントーニョの言葉が菊の胸を深く突き刺した。一番考えたくない事がアントーニョの口から出た事で、ギュッと胸が引き絞られた心地になる。
黙り込んだ菊の視線は握り締めた自分の拳に落ちた。
「なあ菊ちゃん。気持ちはな、口に出さんと誰にも分からへんで?待っとるだけで手に入るモンなんかあらへん。欲しいんなら、声に出して主張せなあかんよ?それはモノでも、ギルちゃんでもや」
「!、アントーニョさん…」
優しく眇めたアントーニョの翡翠の瞳にはクレアと同じ様な慈しみを感じる。
“待っているだけじゃ、何も手に出来ない”
その言葉は菊の燻り続けていた僅かな独占欲と恋心に火を付けた。
意思の強く宿った瞳にアントーニョは快活に笑みを浮かべる。
「お待ちどうさん!ごめんね?コーヒー温くなっちゃった」
そこへ話し込んでいたフランシスとギルベルトが現れた。
「うわ、ほんまに温いわ。もう冷たいんちゃう?これ」
アントーニョはフランシスからコーヒーのカップを受け取ると眉を寄せて苦言を零す。
「よ、よう。菊。これお前の分」
「あ、ありがとうございます」
どこか緊張しているような、不機嫌ともとれる硬い表情のギルベルトからコーヒーを受け取る。若干声が震えたのは気づかれていないようで良かったとコーヒーを手で包み込んで小さく息を吐く。
「ごめんて。ギルがさ、さっきの子と良い感じに話してるから抜け難いったらないよ」
フランシスはギルベルトを横目に菊の隣に腰掛けるが、フランシスの言葉にまた菊の胸が痛くなる。
「あ?俺じゃねえだろ!?お前がくだらねえ事ばっか喋ってるからだろうが!」
ガッと反論するギルベルトは菊の前に佇んだままフランシスに食って掛かる。
「へーそーなん。どうでもええわー」
そんな2人にアントーニョがのほほんと斬り捨てる台詞を吐くと菊の頭を撫でた。アントーニョの行動に菊は驚くが、ギルベルトの視線は鋭くアントーニョを睨みつける。
「…おー怖い怖い」
そんなギルベルトをフランシスがコーヒーを飲みながら茶化せば、バツが悪いとギルベルトは目を逸らした。
「そんで?菊ちゃん最近どうなん?」
アントーニョは睨んでくるギルベルトを前にニヨニヨと目で笑いながら、菊に問いかける。
「え、最近?…特に変わった事も無いですよ?」
菊は今日までの生活内容を思い浮かべてみるが、祖母も元気だし、自分も元気だ。
変わった事…といえば、思い起こされるのは今朝鶏が卵を産んでいた事だろうか?と記憶を辿る。早速目玉焼きにして祖母と半分に分けたのだ。濃厚で実に美味しかった。
「卵は美味しかったですね!鶏が卵を産んだ以外では特に何もありませんよ?」
「卵って…。けどさ、ほんとにぃ?」
アントーニョの思惑に気づいたフランシスが便乗する様に煽る。謎の卵発言はこの際スルーだ。
ギルベルトは悪友達の悪どい表情に内心ギリギリと苛立つが、菊の手前だからとコーヒーを含んで平常心を保つ。
「んー。そうですね…もっと沢山産んでもらうには、やっぱり餌と環境ですよね?気温によっても左右されるんでしょうか?」
コーヒーを手に、うんうん唸りながら想像より斜め上な話を繰り出した。
ギルベルトは菊らしいと安堵の息を吐き、悪友達は「そうじゃない!この鈍感!!」と酸っぱい顔だ。
だが、そこは流石年長者と言うべきか、フランシスが話の軌道修正を図る。
「うんうん。そんな菊ちゃんも魅力なんだけどね、そうじゃない!今朝仲よさそうに歩いてた珈琲店のせがれとはどうなの?」
忽ちギルベルトは不快だと眉を顰め、アントーニョは「親分も気になるわぁ」と笑みを浮かべている。実に楽しそうだ。
「珈琲屋さんの…ああ!ショーンさんですね!珈琲豆をわざわざ家まで運んで下さって、とっても助かりました」
ホカホカと笑みを浮かべる菊にアントーニョがここぞとばかりに質問を重ねる。
「ちゃうて!デートとかしてへんの?誘われたりとかあるやん?」
アントーニョが菊の肩に腕を回して顔を覗き込めば、ギルベルトからの視線がビリビリと痛くなる。しかし、これも友の為。決して楽しんではいない。友の恋の為である。
しかし、『8割ぐらいオモロいねんけどな…』とアントーニョは胸中で舌を出していた。
デートという単語に菊は目を丸くして慌てて手を横に振ると声を張り上げる。
「デッ!?デートだなんて!それに誘われた事も有りませんよ!」
顔を真っ赤にして否定する菊に今度はフランシスがニヨニヨとギルベルトを見上げた。
「…ンだよ」
「いんやー?菊ちゃんたら、モテモテなのに、鈍感だなぁって思っただけだけどぉ?」
「えっ!フランシスさんまで!?もう!揶揄わないで下さいよ!」
フランシスの言葉に反応したのは菊だ。ギルベルトは唇を引き結んでムスッとしている。
「分かって無いねぇ…。ご飯食べに行こうとか誘われた事あるでしょ?」
フランシスは両手をあげてお手上げポーズで首を振るが、菊は眉を寄せて手元のコーヒーを見つめた。
「…そんな奇特な方いらっしゃいませんよ。皆さん、食べに行こうなんて言ってくれた事無いです」
地味な菊とは違い、村には煌びやかな女性達が居る。わざわざ魅力の無い菊を誘いに来る人なんていない。そこまで考えてシュンと気落ちしてしまう。完全なる劣等感だと分かってはいるが、こればかりはどうしようもないのだ。
逆にギルベルトはまだ誘われた事の無い菊に安堵感からホッとする。
「あー、えっと、ほら…」
しどろもどろするフランシスにアントーニョは視線で「こん阿保!」と罵ると、菊の顔をニッコリと見つめた。
「今までに無いん?贈り物貰ったとかあるやろ?」
「そう、ですね。食べ物は皆さん分けて下さいますし、後は服もプレゼントして頂いて、申し訳ない限りです」
眉を下げる菊にギルベルトはギシッと音がしそうな程固まり、悪友2人はニヤリと口角が上がった。
「へー?誰からのプレゼントなん?」
「え、と…トミーさんからシンプルなドレスとブーツを頂いて、スコットさんからネグリジェ?というものを頂きましたね。どれも新品らしくて、中々着る機会も無くて…、あとは隣家の奥さんからお古のエプロンドレスを頂きました」
「え?ネグリジェ?」
「スコットと今度飲みに行かなあかんなぁ…」
ギョッとするフランシスと全く笑ってない瞳で飲みに行くと言うアントーニョ。そのアントーニョの握り締めた拳がふるふる震えている。
そしてギルベルトは一瞬思考が止まりかけたが、ギリギリと奥歯を噛み締めた。
男が服を贈るのは脱がせる為。それがネグリジェともなれば、嫌でも想像は夜の営みにまで発展する。邪な思いの詰まった贈り物だ。
それだけでも問題だが、他にも菊に贈り物をする輩が居るのが面白くない。
「菊ちゃん、何も言わないで、そのネグリジェは捨てなさい」
「え?」
「そうやで?ンなモン着とったら呪われんで?」
「ぇえ!?そんな恐ろしい物だったんですか!?」
とんでもない事を吹き込むアントーニョに菊はギョッと驚き、フランシスはやれやれと嘆息すると、徐に立ち上がりギルベルトに聞こえる程の声量で囁く。
「…こりゃ、時間の問題だね」
「あ?」
ギルベルトが分からないとばかりにフランシスを睨めば、フランシスはニヤリと笑みを深める。
「だから、菊ちゃんが誰かのモノになるのが。さ」
「ーーッ」
思わずギルベルトは息を飲んだ。
心臓が、頭が痛い。
菊が誰かのモノになる?菊の隣に知らない奴が当たり前だって顔で立って、当然だと言わんばかりに抱き寄せるのか?
腹の奥からヒンヤリと冷気が立ち込めてくる感覚にゾッとする。

そこまで思考が至ると、ギルベルトは無言で菊の腕を掴み、滑り落ちたコーヒーをそのままに走り出した。
「ッ!、ギルベルト君!?」
背後では菊が驚きの声を上げるが、答えてやれる余裕が無い。
ただ、この場から連れ去りたい衝動に刈られたのだ。誰にも渡したくないという想いが頭の中を占めた。

走り去って行く2人を見送り、フランシスとアントーニョは同時に溜息を吐く。
「やっとエンジンかかったな、あのポンコツ」
「視線だけで殺されるか思ったで?ま、何にしても上手いことやってくれたらええんやけどな」
「はは。あの様子で何も出来ませんでしたって言われたら相当なヘタレじゃん。大丈夫だと思うけど?」
フランシスは地面に転がるカップをベンチの上に拾い上げて小さく笑う。
「ま、菊ちゃんの方が男前な所あるからなぁ。意外と菊ちゃんから言うかもしれんで?親分結構発破かけたし」
アントーニョが両腕を上げて大きく伸びをするのを横にフランシスは流石と関心する。
「あの子らにも後で礼言うとかんとな。協力してもろうたんやろ?」
アントーニョの言う【あの子ら】とは、タイミング良く声を掛けてきた見ず知らずの少女達だ。フランシスが事前に仕込んでいたエキストラだろうとアントーニョは思っていた。
「え?…ああ!あの子達は本当に誘ってきたの。上手い具合に菊ちゃんから見える位置だったから、使わせてもらったけどね」
「え!?」
少女達が仕込みじゃないということに驚くアントーニョに、フランシスはクスクス笑った。
「あの子達は本当に俺とギル狙いって事。飲みに行かないかってしつこくてね。ま、俺もギルも彼女が居るからって断ったけど。ちょっと勿体なかったな」
「神の思し召しってやつなん?」
「そこは愛の女神様でしょ?若しくはキューピッドの力添えさ」
「ほんなら、今日はクレアさんにエエ報告が出来るって事やな」
「だと良いけどね。さ、俺たちは早いけどご飯でも食べて、お疲れ様会でもやろうか?美味しいワインがあるって聞いてるんだ」
「それ、自分が飲みたいだけやん。フランの奢りでなら行ったってもええで」
「ちゃっかりしてるな、お前」
早よ行くで!とフランシスの腕を引き歩き出すアントーニョに呆れながらも、仕方なく歩き出す。
「明日どうやって揶揄う?」
「ん?直接押し掛けるんもアリやな」
明日にはきっと浮かれて花まで飛ばしているだろうギルベルトを思い、フランシスとアントーニョは笑みを浮かべて村の中を浮ついた足で歩いた。







冷たい風が頬を撫で、菊の長い髪を流す。
サイドの髪を耳にかけて、ジッと前を見据えたままのギルベルトを見上げた。
この場に辿り着いてから、夕焼けに染まる田園や山間部を眺めるギルベルトの表情は少し硬い。
突然此処まで連れて来て、何かあったのか?それとも自分が何かしたのか?と菊は不安に思う。
それでも、伝えるなら今だと思った。アントーニョからの発破が効いているのもあるが、あの金髪の少女がどうも頭の中でチラついて離れない。
ギルベルトにちゃんと伝えておきたい言葉が、想いがある。後悔したくない。
ギルベルトが誰を選ぼうとも、隣に立つのがあの子だとしても。
菊はバクバクと大きく鼓動する心臓を落ち着かせる様に、小さく深呼吸を繰り返す。
「あ、あの、ギルベルト君…!」
「…ん?」
意を決して名を呼べば、ギルベルトの目線は山の頂上から菊へと移る。
その赤い眼差しが夕陽の紅に煌めき、菊の緊張度が更に上昇した。
「その…、あのっ…!んんッ!」
ぶつぶつと難しい表情で咳払いをした菊は、「…良し!」と意気込むとギルベルトを真っ直ぐ見つめた。
その真剣な表情にギョッと驚き、ギルベルトは思わず居住まいを正す。
「す、好き…です!あの、私っ…、ギルベルト君の事が好きなんですっ!」
菊の真っ赤に染まった顔と丸い瞳はどこか不安気に揺れていた。
ギルベルトの胸の内では、一瞬時が止まってしまう。だが、菊の言葉を頭で理解出来た時、歓喜が渦巻き、同時に先を越された悔しい気持ちとが綯い交ぜになり、複雑な心境から思わず眉間に皺が寄る。
険しい表情のギルベルトに菊はスゥッと身体の芯から冷えていく心地に陥った。
『あ…。どうしよう。迷惑…?私、自分の事ばっかり考えてギルベルト君の気持ち考えてなかった…嫌われた?いやだ…嫌わないで…、せめて…ッ、今まで通り…』
自己嫌悪に菊の唇はギュッと引き結ばれ、握り締めた拳は小さく震えた。
涙しそうになるのを必死に耐える。
「菊」
ギルベルトの声にびくりと肩が震えた。
そんな菊の状態に構わずギルベルトは一歩踏み出す。反射的に菊は一歩足が後退するが、賺さずギルベルトの手が菊の腕を掴んだ事により、2人の距離は縮まった。
「ッ、あの…、ギル…「クソッ!」!」
突然吐き出されたギルベルトのスラングに涙が出そうになる。そんなに不快だったのだろうか。気が遠くなりそうだった。
「こっち向け」
目線を下げた菊の顎を掬い上げて、ギルベルトは真っ直ぐ菊と目を合わせた。
菊の琥珀色の瞳は潤み、揺れている。
「先に言いやがって…。いいか?一回しか言わねえぞ?俺は菊の事が友達とかじゃない意味で…、恋人にしたい意味…いや、俺の嫁にしたい意味で好きだ!菊を愛してる!」
夕焼けに負けない程、ギルベルトの顔が真っ赤だ。菊はポカンとした表情から漸く言葉の意味を解してギルベルト以上に真っ赤に染まった。
「だから!俺と結婚を前提に付き合え!!」
ギュッと眉間の皺を寄せたギルベルトからかなりの緊張感が伝わってくる。そしてその真剣なまでの想いも。
菊はギルベルトの固く握り締めた大きな拳をそっと包み込むように覆うと、あまりの嬉しさと両想いだという安堵感から笑みが溢れた。
「こんなに緊張して…、私と一緒だったんですね。妻にと望んで下さるのなら喜んでお受け致します。…ずっと、ずっと離さないで下さいね」
美しく微笑んだ菊にギルベルトは目を見開いたが、次の瞬間には満面の笑みを浮かべて愛おしい存在をその腕に抱き締めた。
もう離さないとばかりに。
「当たり前だろうが。嫌だっつっても離してやんねぇよ。ずっとな」
「〜ッ嬉しいです」
菊の手もギルベルトの背中にまわる。
お互いに、人の体温がこんなにも心地良く、幸せだなんて知らなかった。
暫く2人は抱き締め合い、恋人となれた余韻に浸っていた。
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