「ンッフンフンフン〜、フフンッ!ンーン〜ン゛ーー♫」
調子っ外れな鼻歌が止まない。
ザクザクと土を耕す鍬の音がリズミカルにさえ聴こえてくる。
朝日を浴びて眩しく輝く白銀の髪が汗で湿り気を帯び、白い頬には汗が幾筋も滴っている美丈夫はギルベルトだ。
ルートヴィッヒは畑の雑草を引き抜きながら、目線の先で上機嫌に畑を耕す己の兄を観察していた。
昨日、孤児院の門限時刻ちょうどにギルベルトが帰宅したのだ。当然シスターから説教される事になる。ルートヴィッヒは我が兄ながら恥ずかしいと肩身を小さくして周りの子供達からの同情や揶揄いの篭った眼差しを一身に受けていた。
シスターの説教に対して、いつもなら「うっせえ!ババア!」と悪態を吐くのが常套句だった彼が、「うん。悪りぃな。反省してる」と述べた。
シスターは説教する口を引攣らせて、まるで天変地異でも目の当たりにしたように固まってしまう。
だって、あのギルベルトが、孤児院でも指折りの口の悪さを誇るギルベルトが素直に反省の言葉を紡いだのだ。驚きを通り越してシスターは固まり、ハッとするとギルベルトの額に手を合わせた。
「…おい、何だよ?シスター?」
「…熱は、無い様ですね」
寧ろ外気で冷えていたギルベルトの額に、シスターは眉根を寄せて唸る。
熱が無いならばこの悪ガキの態度は何だ?と頭を捻ってしまう始末だ。
「ギルベルト、貴方何か悪さでも仕出かして来たのですか?隠し事は天に在わす主がお許しになりません」
熱が無いなら、後ろめたい事でもあるのだろうとシスターが半眼となって睨んでも、ギルベルトは反論するどころかニカッと笑んだ。
「悪い事なんて無えよ!俺様、今超絶幸せだかんな!!ケセセ!!」
「そ、それは良かったですね…?」
やっぱり可笑しな子だわ。マザーに相談しないと。とシスターは胸中で真摯に思った。
それを遠目に見ていたルートヴィッヒや孤児院の子供達も、ギルベルトの可笑しな態度に騒つく。
「明日は雨になるぜ!」「いやいや、雹が降るな!」「あの態度見ただろ?矢が降って来ても驚かないぜ!」等と盛り上がり始めた。

その後、ルートヴィッヒは就寝前に年長部屋である兄の部屋を訪れて事の経緯を問うたが、結局は教えてくれなかった。
締まりのない顔でルートヴィッヒを見下ろし、「言っちまうか?いやぁ、でもなぁ…、ショック受けちまうかなぁ…あぁ、でも、早い方が良いしなぁ…」とブツブツ呟き出した兄。
いくら待てども回答は得られない。それに1人問答する兄が面倒になってきた。更に言えば就寝時間目前である。素直に眠いのだ。子供の体力的にもう限界である。
腕を組んで目を閉じたまま唸る兄を放置して、ルートヴィッヒは自室に戻って行ったのだが、後に残されたギルベルトがいつのまにか居なくなった弟に気付き、その場で少し落ち込んでいたのを弟は知らない。

昨夜の事を思い出し、ルートヴィッヒは手元の草をぶちぶちと引き抜き、唇を尖らせる。
面倒な(ウザイとも言える)人だが、たった1人の兄でもある。何かあったのなら相談してほしい。弟からすれば心配なものは心配なのだ。
チラッとギルベルトを窺えば、さっきまで鼻歌を歌っていたのに、今度は鍬を見つめてニヨニヨと表情を緩めている。
「なあ!ルートの兄ちゃんどうしたんだ?」
「酷え鼻唄の次は鍬見つめて二ヤけてんぜ?どっかで頭ぶつけたんじゃねえの?」
ルートヴィッヒの隣で同じように草を引っこ抜いていた子供達がコソコソとギルベルトに目を向けながら問いかけてきた。どうやら他の子供達も普段とは違うギルベルトの雰囲気に気味が悪いと思っていた様だ。
兄貴の事を聞かれてもルートヴィッヒには分からない。あんなニヨニヨした顔で鍬をまるで恋人の様に見つめる兄の事なんて分かりたくも無いが。
「む…。俺にもよく分からん」
兄の様子から察するに本当に困った事では無いのだろう。心配するだけ気苦労かもしれないと思い直し、ルートヴィッヒは草抜きを再開する。
今日も孤児院の掃除が終われば菊の所へとオヤツを食べに行く予定で、今日一番の楽しみだったりもする。兄の事は放っておいて大丈夫そうだし、この億劫な草抜きを早く終わらせて、菊自慢の美味しいお菓子を食べないと。
草抜きのスピードをグンとあげたルートヴィッヒに感化されたのか、ライバル心からか周りの子供達も競うように手を早めた。



晴れてギルベルトと恋人となった菊は擽ったい心地に表情が緩みっぱなしだ。
あの後、お互いに頬を真っ赤に染めて、手を繋いだ。
子供の頃よりも大きく、硬いギルベルトの掌に7年もの歳月と男女の成長の違いを実感した。
夕焼け空から群青の空へと変わり、辺りは夜の気配が漂い始め、風は冷たいのだが、不思議と寒さを感じないどころか、暑いくらいだ。
道中では村人から嫉妬と祝福等様々な視線が向けられた。
これからもずっと側で、ギルベルトの隣で歩いて行く事の出来る幸せを思うと、胸が感動で沸々と熱い程に滾り、叫びたい衝動に駆られる。
こんなにも愛おしいと思う人と想いを通わせる事が、ただただ嬉しい。

そして、想いを通わせ合って初めてギルベルトの隠そうともしない情のこもった眼差しに気付いた。
あの瞳は山葡萄の飴玉の様にトロトロとしている。甘く蕩けてしまいそうだ。
あの大きな掌で頬を撫でて、小さく微笑む美しい表情に呼吸を忘れて。
抱き寄せられて閉じ込められた胸元は微かに汗と洗濯石鹸の香りが鼻腔の奥深くまで届く。
耳元で「好きだ」と囁く声に意識を奪われてしまう。
五感全てがギルベルトを意識して、求めて止まない。もっと近くに、もっともっと彼を知りたいと貪欲になってしまう。

思い出した様に頬を緩める菊を祖母であるクレアは優しく、そして嬉しそうに眺め、子犬である金ちゃんは面白くないとばかりに鼻を鳴らしてソッポを向いた。




午後になると菊の元に何処か余所余所しい表情を見せるギルベルトとそんな兄を半眼で見上げるルートヴィッヒが訪れた。
出迎えた菊も頬が真っ赤に染まっている。
「菊?体調でも悪いのか?顔が真っ赤だ」
ルートヴィッヒの素直な指摘に菊は慌てて頬を両手で覆い隠す。
「…は!?え!?な、何でも無いです!大丈夫ですよ!全然大丈夫!!!」
「…とても大丈夫には見えないが」
兄同様に可笑しな態度を見せる菊にも半眼となってしまう。
「ル、ルッツ!!ほら!さっさと手洗いうがいしてこい!な!!」
ルートヴィッヒの背中を押しやり、ギルベルトがワタワタとし始めると、菊も「あ、そ、そうですね!!オヤツの準備出来てますよ!!」とルートヴィッヒに道を開けた。
訝しむ様に奥にある洗面所へと向かうが、背後の2人が気になって仕方ない。
振り返ればお互いに目を合わせる事も無く俯く2人が居て、顔全体が真っ赤に茹で上がっている。
いつもと違う態度を示す2人を怪訝に思い、ルートヴィッヒは扉の陰から少し様子を窺う事にした。

「い、いらっしゃませ…」
「お、おう!邪魔するぜ!!」
ギクシャクとぎこちない動作で家内へと足を踏み入れる。
「え、えっと、沢山クッキー作ったので…」
俯いたまま、口早に喋る菊の肩に手を乗せれば、更に真っ赤になった菊が顔を上げる。
「…1秒でも早く、逢いたかった」
先程の緊張感は何処に行ったのか、ギルベルトは菊を真っ直ぐ見下ろす。
何でそんなカッコよくて嬉しい事を言ってくれるのだろうか。こっちばっかりが焦って、恥ずかしくて、叫び出したいのに、何だか狡い。
「〜ッ、わ、私も…、逢いたかった、です」
「!、」
真っ赤に茹で上がり、涙目になった菊からの返答に、ギルベルトも嬉しさから真っ赤に茹で上がった。
咄嗟に腕の中に閉じ込めてしまいたいと抱き寄せてしまう。
ギュウッと強く抱き締めれば、胸元に菊からの熱い体温が伝わって来た。
菊は驚いたものの、大人しく収まっている。その細い指先はギルベルトのジャケットの裾を小さく握り締めていた。
「菊、すげぇ熱いな」
「〜ッ、ギルベルトくんの、所為ですよ」
可愛い事を言ってしまうこの小さな柔らかい唇に、この歓喜に染まる想いの丈を押し付けたい衝動に駆られた。
「…菊」
「?」
ギルベルトの手が菊の肩を少し押しやって、少しの距離が生まれる。
疑問符を浮かべていれば、顔を傾けて近づいて来るギルベルトの艶やかな表情に驚きと興奮から、ギュッと目を閉じた。
そして、フニッと柔らかく、少しカサついた唇が触れ合う。
キスされた。キスを受け入れてくれた。両者の想いは溢れ出る多幸感に包まれる。



扉の陰から様子を窺っていたルートヴィッヒは、兄と菊のキスシーンを目の当たりにしてしまう。
始めは、ギルベルトが徐に菊の肩を優しく包み込む様に抱き込むとハグをした事に驚いた。いつもは軽く挨拶を交わすだけなのに、今日はどうしたというのだろう?
ルートヴィッヒはドキドキと煩い心臓を落ち着かせる様にギュッと胸元を抑えた。
暫く抱き締め合うと、今度はギルベルトが顔を傾けて菊にキスをする。ルートヴィッヒは驚きに目を見開いた。
兄はいつだって挨拶のハグは交わしても、キスだけは絶対にした事が無い。なのに、今、兄は菊にキスをしたのだ。
しかもそのキスは頬では無く唇だ。
あれは挨拶では無い。
恋人同士がする愛情表現だ。
暫く固まった様に動かない2人はキスをしたままで…、随分と長く感じる。
真っ赤な顔色で強く目を閉じる2人を前に、ルートヴィッヒはこの2人が想いを通わせ合った仲なのだと確信した。だから、昨夜から兄の様子は頗る可笑しかったし、菊もいつも以上に頬が赤いのだと思い至る。
菊には淡い恋心の様な憧れに近い感情を抱いてはいたが、あんな幸せそうな兄と菊の2人に胸が締め付けられるどころか、不思議とスッとしたのだ。胸が温かくなる心地に、ルートヴィッヒの表情も柔らかくなる。
「…なんだ。やっとか」
独り言を小さく呟くと洗面所へと急いだ。


ルートヴィッヒが手洗いうがいから戻ると、入れ替わる様にギルベルトが上機嫌に洗面所へと向かう。しっかりとルートヴィッヒの頭を撫でる事も忘れない。
菊はキッチンで蜂蜜湯とハーブティーを準備していた。
「菊、何か手伝う事はあるか?」
トトトトと菊の元に駆け寄れば、菊は優しく微笑み「では、これをお願いします」と綺麗な手編みの籠に入ったクッキーを手渡される。
甘く香ばしい香りが鼻腔を掠め、思わずゴクリと喉がなる。
ルートヴィッヒの様子に菊はクスクスと小さく笑うと、トレイにティーポットとカップを乗せて「さあ、食べましょうか?」と先導する様にテーブルへと歩き出した。
ルートヴィッヒがクッキーをテーブルに置いたタイミングでギルベルトが戻ると、菊がカップにハーブティーを注ぐ。ルートヴィッヒにはミルクが入った蜂蜜湯だ。
「美味そうなクッキーだな!」
「沢山作ったので孤児院にも持って帰って皆さんで召し上がって下さいね」
菊の手作りクッキーは孤児院でも評判が良い。帰ってからもクッキーが食べられると思うとルートヴィッヒの頬は緩んだ。
「おう!ありがとな!」
「菊、ありがとう!」
兄弟からのお礼の言葉に菊は嬉しそうに目を細めて笑う。
嗚呼、やっぱり菊は綺麗だ。まるで聖母の様だ。とルートヴィッヒが思う隣では、ギルベルトが頬を赤くしていた。

ーーピッ、チチチチ

ふと、家の中に反響する様に小鳥のさえずりが響いた。
ギョッとしたルートヴィッヒは辺りを見渡し、開け放った窓辺に一羽の真っ白な小鳥が居るのに気付く。
ギルベルトは「お、また来たのかよ?」と慣れた様に小鳥を見遣り、ハーブティーを含んだ。どうやらギルベルトは小鳥の存在を以前から知っていた様だ。
「ここ最近、毎日なんですよ」
そう答えると菊はクッキーを一枚手に取ると窓辺に歩み寄る。
菊が近付くと小鳥は嬉しそうにピョンピョンとその場で跳ねて、ジッと菊を見上げて居る。
「あなたも沢山食べて下さいね」
手の中にあったクッキーを小さく砕いて窓辺に置けば、小鳥は砕いたクッキーを器用に嘴で咥え込んで咀嚼する様にパクパクと飲み込む。
菊の隣にそっとルートヴィッヒが歩み寄っても小鳥は逃げるどころか、警戒さえもしてこない。
「この小鳥は随分と人馴れしているんだな」
「とても賢いんですよ」
興味津々な様子でジッと小鳥を観察する。
真っ白な小鳥の目と嘴は漆黒。尾の先に向けてグレーがかったグラデーションで、先端は黒い。
とても綺麗な小鳥だった。菊に良く似ていると思う。
「先週の事でした。この小鳥が玄関先で蹲っていて、とても憔悴していたんです」
小鳥を優しく見つめながら、菊はポツリポツリと小鳥との出会いを語り始めた。
「あの時は怪我でもしているのかと思ったのですが、何処にも怪我の痕が見当たらなくて、それでギルベルト君がお腹空いてんじゃねえか?って教えてくれたんですよ。そこでパンを砕いて、水で柔らかくしたモノを与えたら凄い勢いで食べたんです。それから3日後には元気になって、飛び回れるまでに回復したんですよ。それからは毎日こうして窓辺に来てくれるんです」
ーーチチチチ
菊の声に応える様にタイミング良く小鳥が鳴く。
「元気になって良かったな」
ルートヴィッヒが碧色の瞳を細めて笑う。
そんな光景をギルベルトはホコホコとした温かい気持ちで眺めていた。
家族ってこんな感じなのだろう。菊が嫁になれば、子供が産まれて…。そこまで妄想してしまうギルベルトは相当浮かれている。
手にしたクッキーは2人の雰囲気を堪能するのに忙しくまだ一口も食べていない。
ボケっとしていたギルベルトの脛辺りをゲシっと蹴られた衝撃に驚く。
目を丸くして見下ろせば金ちゃんが赤い目を眇めてギルベルトを睨んでいた。
「んだよ?可愛げ無えな」
ブスーッと顔を顰めたギルベルトにフスッと鼻息を大きく鳴らすと、金ちゃんはソファの隣に不貞寝してしまった。
「…いつになったら俺様にも懐くんだよアイツ」
ちぇっちぇー。と唇を尖らせて金ちゃんを見遣り、大きく嘆息する。
金ちゃんは菊が大好きだ。次点で婆ちゃんだろう。
ギルベルトと菊の仲が親密になれば、金ちゃんの機嫌も急降下し、ギルベルトをこうして攻撃(?)してくる。
懐いてくれるなんて、一生来ないんじゃないか?と最近では少し寂しくもなる。
「どうかしました?」
金ちゃんを見つめていたら、菊の心配気な優しい声音が聞こえる。
パッと前に向直れば、菊とルートヴィッヒがギルベルトを見つめていた。
小鳥は慣れた様に菊の肩で落ち着いている。
「あ…、いや、何でも無え」
笑みを浮かべるギルベルトに首を傾げるが、ギルベルトが更に「ほんと何でも無えって!」と笑みを浮かべれば、やっと2人の眼差しは心配したものから安堵の色が混じる眼差しに変わる。
俺様の事好き過ぎるだろ。と胸中で擽ったく思いながら、食べかけていたクッキーを一気に口の中へと放り込んだ。







昨日は弟と共に菊の家を訪れたが、今日は夕方という時間もあるのか、ギルベルト一人だ。
ルートヴィッヒに気を使われたとも言える。
冷たくなってきた風も心地良く感じた。
少し浮つく心地で菊の家の玄関扉をノックし、今日の夕飯を予想する。
今日は野菜のスープだろうか?だとしたらヴルストとマッシュポテト、パンがテーブルに並んでいるだろう。それともポテトグラタンかもしれない。いずれにしろ菊の手料理は全部美味しい。
もう少しお金が溜まれば、村の中央で小さなレストランを開業すると言っていた。それなら毎日菊の店にランチに通うだろう。朝と夜は自宅で菊の手料理が堪能出来るし…。そこまで考えてギルベルトの胸は歓喜で震えた。
自力で生計を立てて、菊と夫婦となり、弟を引き取って家族になる。そして子供に恵まれて、暖かい家庭を築いて、やがて大きく成長していくルートヴィッヒが頼もしくも思える日がくるだろう。まだ見ぬ未来の姿に目尻が緩む。
思考していれば、目の前の扉がガチャと音を立てた。
この扉が開く瞬間が好きだ。
愛おしい人が待っていて、嬉しそうに出迎えてくれる。小さな事だが、ギルベルトにはとても幸せな事であった。
しかし、扉が開いた先には菊の祖母であるクレアが出迎えている。
「?あれ??婆ちゃん、菊は?」
何時もならば優しく出迎えてくれる菊が居ない。家の奥にも見当たらないのだ。
そしてどうしたのか、クレアは眉を下げて不安気にギルベルトを見上げている。
「それがね、まだ帰って来ないんだよ。中央までお使いを頼んだんだけど、随分と遅くて何かあったんじゃないかって心配になってね、今から探しに行こうと思って…」
「!、俺が探して来るから、婆ちゃんは家で待っててくれ!入れ違いで菊が帰って来るかもしんねぇし」
クレアの細い肩を元気付ける様に軽く叩き、ギルベルトは菊がお使いに向かったという村の中央へと走った。

何かあったんだろうか?
事件や事故に巻き込まれたのか?
それとも、知らない奴に誘拐された?
ギルベルトは考え出したらキリがない程の思考に眉を寄せる。
村の中央には家路につく人の姿がチラホラ見えるが、目当ての菊の姿は見当たらない。
流れ出た汗が頬を伝い落ちる。
キョロキョロと辺りを見渡し、菊の行方を推理した。
中央から更に奥に行けば山があり、菊の家の向こう方面には田園地帯が広がる。
田園地帯には用は無い筈だ。
ならば山の方面だろうか?
ギルベルトはゼェゼェと苦しい呼吸をしながらも、また足に力を込めて走り出した。
『菊っ、菊!何処だよ!!!』
視線を忙しなく走らせて黒髪の娘を探す。何処を見ても金髪、茶髪ばかりだ。
とうとう山の入り口にあたる雑木林に差し掛かってしまった。
ハァハァと息を弾ませて、シャツの裾で汗を拭い去る。
「菊ッ!菊ーッ!!何処だー!!」
肺活量の限り大きく叫んでも、ギルベルトの声が反響しただけで美しいソプラノ音は返って来ない。
秋も深まった事もあり、日の入りが早く辺りは既に暗い。
ギルベルトは意を決して雑木林に足を踏み入れる。一応の武器として、落ちていた頑丈そうな木の棒を手に持ち、注意深く辺りを探る。
パキッパキッと踏み締める度に枝の折れる音が鳴り響いた。
雑木林に踏み入って10分程進んだ時、ギルベルトの視界に赤い布が目に入った。よく目を凝らせば、ワインレッド色の見慣れた菊のローブだ。
「!?、菊!菊!!!」
地面に蹲っているのか、目線よりもかなり低い位置にある。
怪我でもしたのか?とギルベルトの肝が冷えた。
ガサガサと生い茂る木々を掻き分けて目的地に辿り着くと、ギルベルトは直ぐに菊の肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「菊!どうした!?」
「ーーッ!?ギ、ギルベルト君!?」
ギョッとした様に菊がギルベルトの名を叫ぶと、ドッと疲労感が襲った。
「え?何してるんですか?」
キョトリとギルベルトを驚いた様に見上げてくる菊に苛立ちが募る。
「〜ッンのアホ!!どんだけ心配したと思ってんだ!!こんなとこで、こんな時間まで何してやがった!!!」
怒りに任せて大声で怒鳴れば、菊の肩がビクッと跳ねる。
そこで菊は、ギルベルトの頬から流れ出る汗と熱いまでの掌の温度に、必死に探していてくれたのだと知る。
「…ぁ、ご、ごめんなさい、私…」
ギルベルトは眉を下げて謝る菊の身体を引き寄せて胸元にしっかりと抱き込む。
「…心配した。何かあったのかって、スゲェ怖かった」
ギュッと力を込めて腕の中の存在を確かめる。
此処に居る。菊は此処に居る。
菊の手が恐る恐るギルベルトの背中に回り、しっかりと抱きしめ返されて、初めてホッと安堵出来た。
「心配かけてごめんなさい。…本当にごめんなさい」
「…おぅ。もう心配かけんなよ。で?こんな所でこんな時間まで何してんだ?」
身体を少しだけ離して、菊の顔を覗き込むと、疑問をぶつける。菊はまた目を伏せると、悲しそうに瞳を揺らした。
「…金ちゃんが、山の中に入って行ってしまって、いくら呼び戻そうと名前を叫んでも振り返る事も無く、行ってしまいました。前ばかり見据えていたので、足元の根に気づかなくて、足を捻って動けなくなったんです…、すみません」
不甲斐ないと俯く菊の頭を優しく撫でて、ギルベルトは雑木林の向こうに聳える山を見上げた。
あの仔犬は菊の事が大好きだった。名前を呼べば嬉しそうに駆け寄って来るし、ギルベルトと菊の間に割り込んで邪魔したりと、菊の側に居たがる仔犬だったのだ。その仔犬が菊の呼びかけに振り向きもせずに去ったとなると…、山に帰ったのかもしれない。
山で偶然にも拾った仔犬だ。山が恋しくなったか、それとも仲間の気配を感じ取ったのか…。
気落ちする菊を横抱きに抱き上げると、菊の慌てる声を無視して村に向けて歩き出す。
「ギ、ギルベルト君!お、重くないですか?」
頬を染めた菊が恐る恐るギルベルトに問い掛ける。
「んあ?思った程でも無えよ、大丈夫だ」
寧ろ少し軽いぐらいだ。
「ぁ、ぅ…、恐れ入ります、すみません」
何故か菊は顔を伏せて謝ってくる。何でだ?と不思議に思いながらも、深く追求しないで急いで足を動かした。

何故だか、嫌な気配が山の方からする。
気味の悪い威圧感とでもいうのだろうか?不穏な気配が背中を撫でているかのようで、此処には長居したくない。
仔犬の事は気になるが、探したとしても見つかるかどうか怪しい。
菊が呼び寄せても振り返らなかったのだから。

『ま、動物の帰巣本能ってやつでフラッと帰って来るかもしんねぇし。今は…』

腕の中の存在を守る様に、しっかりと抱き直すとキッと前を見据えた。
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