秋の終わりを迎えた夜長に報せは齎された。
村に現れたのは牛よりも大きな狼。
淡い金色の毛並に鋭い三白眼。瞳は血の様に紅い。その獣は古より伝わる山神だ。
逃げ惑う村人を気にも留めず、山神はマルコスの家の前で一度大きく咆哮した。
驚き蒼褪めたマルコスは山神のまえで跪き、山神を恐る恐る見上げる。
《今年の嫁はどうした?約束を違えるつもりか?》
山神の口は開いてもないのに、不思議と人間と同じ言語で語り掛けてくる。しかしそれよりもその内容にマルコスは驚愕したのだ。
「お、恐れながら!申し上げます!夏の満月の夜!花嫁を奉納致しました!」
《その花嫁は処女じゃ無かったし、男と逃げたが?》
「!、逃げ、た…?まさか…ッ」
動揺するマルコスを嘲ける様に鼻息を鳴らすと、村を見渡した。
《さっさと嫁を寄越せ。もう1人菊という候補が居たんだろう?》
「な!?…そんな!いきなり…!」
否定の言葉を吐くマルコスを冷たく見下ろして、山神は牙を覗かせる。その大きく発達した牙にマルコスはカタカタと震え出した。あんな大きな牙が突き立てられたらひとたまりもない。
《口答えするか?何なら疫病でも流行らせてこの村を壊滅してやろうか?ほら、どうすんだ?村長よ》
疫病を流行らせると言った山神にマルコスは下唇を噛んだ。
突然嫁を用意しろと言われても、どうしようもない。あの奉納から既に半年は経とうとしている。何故今更と疑問でしかない。贄嫁候補だった菊はもう村で安息の日々を送っている。そんな娘を再度贄嫁にと酷な行いが出来ない。
そして菊は誰隔てなく優しく、思い遣りのある娘だ。つい最近、漸く恋人が出来て、人生これからという時。
更に村人全員が菊を村の一員と認め、恋い焦がれている対象でもあるのだ。
「ど、どうか!あと5年!いや、3年お待ち下さい!!そうすれば何とか…ッ!」
宛なんか無い。それでも3年もの間に何処かで拾い子を見つけ出せば…、いや、また繰り返すなんて出来ない。終わりにしなければ。
そんな考えがマルコスの頭に過ぎった。
「…お、恐れながら、申し上げます!」
山神を説得するしか方法が無い。この老い先短い身を盾にする。それが自分の考える村長としての役割だ。
「どうか!娘の代わりに村の穀物、酒を奉納させて頂きとう御座います!村の!年頃の娘はもうおりません!」
スッと力強く山神を見返すマルコスの瞳の奥に拒否の色を垣間見た山神は眉間の皺を寄せ威嚇する。
ーーヴゥルルル
「ッ、」
無言の睨み合いが続く。マルコスは負けてなるものかと瞳に力を宿し、唸る山神を真っ向から見つめ返した。
《…良いだろう。その要求を菊という嫁の代わりに叶えてやらんこともない。此度の花嫁を最後に、毎年同じ時期に穀物と祈りを奉納しろ》
「!?」
山神は鼻頭に寄せた皺を緩めると、妥協案だと話し始めたのだが、その要求はやはり贄嫁を捧げる事に変わりない。ただし、次の贄嫁候補を用立てる事は無くなる。毎年同じ時期に穀物と祈りを奉納するだけで良いのだ。
しかし、とマルコスは縋る様に山神を見上げた。
あの子だけは、菊だけは守ってやりたい。
我が命と引き換えにならないかと意を決して口を開いた途端、山神はフスッと大きく鼻息を鳴らし、再びマルコスを睨みおろして来る。
《万が一にも、今交わした約束を違えば…分かるな?貴様ら人間が約束を違わない為に人質をとらせてもらう》
フッと山神の紅い瞳が眇められた。
無碍に吐き出された山神の言葉に慄く。
「な、何を…!?」
《手始めに、先ずは其処の建物のガキからだ。…フン、3人か》
山神がツイッと鼻先で示したのは村で一際大きな建物。其処は教会であり、その教会の裏手には孤児院がある。
マルコスは一気に蒼褪めて睨む様に山神を見つめた。
「い、一体何を!?」
《1週間だ。1週間後のこの時間にまた来る。直々に迎えに来てやるんだからな。今度は裏切るな。もし裏切れば村は壊滅。今し方、我が厄災にて病に侵された奴等は1週間後、死ぬ事になる》
狼はそれだけ告げると軽い音を立てて、一気に跳躍し闇の空へと消えていった。

無慈悲とはこの事だろうか?
神とは、山神とは…?
人類を守るべき存在では無いのか?
マルコスは山神が消えた後もその場に膝をつき放心状態で山神が消えた夜空を見上げていた。
どれ程そうしていただろう。村人達が外に飛び出してくる物音に漸くハッとし、マルコスは弾かれた様に教会に向けて駆け出す。家々から村人が強張った顔を出して「さっきのは?」「大丈夫だったのかい?」と声を掛けてくるが、それどころじゃない。
教会を突き抜けて孤児院の扉を無断で押し開けば、シスターと子供達が驚いた様にマルコスを見つめた。
「だ、誰が!誰が倒れた!?」
マルコスの唾を飛ばす勢いにシスターは目を丸くする。
「どうしてそれを?…いえ、さっき3人の子供が倒れて意識がありません。今はマザーが診ています」
指し示されたのは大部屋。幼い子供達が並んで眠る寝室だ。
マルコスは恐る恐る扉の中に入り、目にした光景に思わず天を仰いだ。
ベッドに寝込むのはいずれも、まだわんぱく盛りな子供達だった。
カインは5歳。ジョージは8歳。ルートヴィッヒは10歳だ。
子供達の頬や腕、首には紫色の斑点がある。呼吸する事さえ苦しいと言わんばかりに其々苦悶の表情だ。
マザーは必死に子供達の額に水で冷やしたタオルを載せて回り、涙を流すカインの手を握っては勇気づけていた。
次代を担う子供を標的にする事から、本当に村を根絶やしにするつもりなのだろう。
ルートヴィッヒのベッド脇では、ギルベルトが泣きそうな顔で手を握っている。
子供達が魘されている様子を見渡し、そしてギルベルトを見つめて、マルコスはギュッと掌を握り締めた。

【村の存亡と菊1人の命】

残酷な結論だと分かっている。しかし、マルコスには村を守る村長としての責任がある。
それでも、暖かく、優しく微笑む菊が脳裏に浮かび、涙が溢れそうになった。村長になった時に背中を押してくれたマルコスにとっても大事な孫の様な存在だ。失いたくない。

だがーー、

暫しその場に立ち尽くすマルコスは奥歯を噛み締めて、飲み込みたく無い意思を無理矢理飲み込みギルベルトを呼び寄せた。
「ギルベルト。少しいいか?」
ギルベルトは眼差しで此処を離れたくないと訴えるも、マルコスの悲しみを含んだ鋭い眼差しに渋々納得する。



突然倒れたルートヴィッヒが心配でならない。
食事の後片付けをしていた時、急にルートヴィッヒが倒れ、次いで近くにいた子供達も倒れた。
身体からは尋常じゃない程の熱があり、呼吸も苦しそうだった。いつの間に出来たのか紫色の斑点まで表れている。
ギルベルトは病で両親を亡くしていた。
目の前でルートヴィッヒが倒れ、また【亡くす】という恐怖がギルベルトの心臓を冷やしていったのだ。
一刻も早くマルコスとの話を終え、苦しむ弟の元に戻らねばならない。そんな気持ちの表れか、歩調が少し速くなった。

マルコスの後について、孤児院の談話室に入る。
椅子に腰掛けて座るマルコスの向かいにギルベルトも座る様に促された。
ギルベルトは早く話を終えたいとばかりに椅子に腰掛けると、早速「それで?何だよ?」とマルコスに問い掛ける。
マルコスは重く息を吐き出した。いつになく重い雰囲気に思わず息を飲んだ。
「…ギルベルト。お前は菊と仲が良いな」
突拍子も無く言われ、ギルベルトは呆気にとられた。
「あ?ま、まあそりゃ…それなりに?」
仲が良いというより、良い仲だ。恋人なのだから。
「…すまないが、菊の事は諦めてほしい」
菊を諦める?途端にギルベルトは歯をむき出しマルコスを睨み据えた。
「ンで今!そんな事言われなきゃなんねえんだよ!!」
「〜ッ贄嫁だ!」
「ーーッ!?」
ギルベルトの怒鳴り声に対し、マルコスも負けじと声を張り上げる。
「1週間後の夜、菊を贄嫁として奉納する」
「…は?な、何言って…?菊はもう贄嫁じゃねえだろうが!何で今更贄嫁になんなきゃいけねえんだよ!!巫山戯んな!クソジジイ!!!」
ギルベルトの悲鳴の様な声音にマルコスは眉を下げた。
本心ではギルベルトと同じ気持ちだ。しかし、村と菊を天秤にかけた時、傾くのは村だ。村には多くの守るべき命が、未来がある。
「この子供達の病は、山神様の祟りだ。さっき花嫁を寄越せと、山神様自ら現れたところだ。今、村には菊の他に花嫁が居らんのだ。しかも、菊をと御指名でな。…村を根絶やしにする訳にはいかん!子供達を、村を…、ルートヴィッヒを助けると思って、菊の事は諦めるんだ」
「…ルッツの…為?」
途端にギルベルトは目の光を無くし、力無く項垂れた。
弟の名を強調した事に卑怯だと胸のうちで非難するが、ギルベルトには一番効果的な単語なのだ。
マルコスはギルベルトの肩を叩くと無言で退室して行く。
ギルベルトは何も言えず、ただ絶望に打ちひしがれた。
ようやく菊と一緒に居られるのに。
やっと触れ合える距離になったのに。
ずっと側に居ると誓ったのに…ッ!!
でも、ルッツが…、また家族を失う?
この世でたった1人の弟を…?嫌だ!けど!菊も失いたくない!
ギルベルトの合い判する想いは犇めき合った。



孤児院の子供が祟りに遭ったという話が広まったのは翌日の事だ。
マルコスが寄り合いを開き、山神との事を話した。贄嫁であるクリスが処女で無かった事、男と逃走していた事。山神の怒りは尤もだという事。そして菊を奉納するのを最後に次からは穀物や祈りを奉納する事をマルコスは眉を下げて説明した。
皆一様に事の詳細を耳にしては口を噤んでいった。
「菊さんが贄嫁…何か他に手は無いのか?」
そう声を上げたのは、菊の隣家に住む木こりの男性だった。
「…心苦しいが、山神様は全てを見ておられる。菊を奉納しろと御指名なのじゃ。他に手が無い…」
重苦しい雰囲気でマルコスが口にすれば、菊とギルベルトの仲睦まじい姿を目にしていた隣家の夫妻は口元を抑えて俯いた。
「1週間後、贄嫁の儀式を執り行う」
村の存亡の為、子供達の未来の為、その言葉に意を唱える者は誰も居ない。

「冗談じゃないよ!マルコス!!」

ただ1人、菊の祖母だけが怖い程の剣幕でマルコスに詰め寄った。
「あの子は!!これからなんだ!やっと幸せになれるっていうのに…ッ!!」
その場に泣き崩れた祖母の肩を沈痛な面持ちでフランシスとアントーニョが支える。
「…すまない。もうどうしようも無いんだ。クレア、すまない…」
その声は静まりかえった室内に大きく反響した。


そして、その報せは菊にも伝えられる。
祖母が支えられながら帰宅し、菊は大層驚いた。隣家の夫妻はどこか気まずげに顔を見合わせている。いつもと違う夫妻の雰囲気に菊の不安はより駆り立てられた。
「婆ちゃん、菊には俺が伝えるから」
力無く頷いた祖母を隣家の嫁が寝室に連れて行くのを見送ると、男が菊に深刻な面持ちで告げた。
山神の怒りをかって、祟りが孤児院にいる子供達に降りかかった事や贄嫁だったクリスが逃げてしまった事、マルコスの話通り全てを話終える頃には菊は呆然とただ話を静かに聞いていた。
「菊さん…、ギルベルトもこの事は昨日のうちに村長から聞いてるそうだよ」
「…そう、ですか」
「菊さん、すまねぇ…。何の力にもなれねぇ…!」
悔しいとばかりに手を握り締める姿を前に、菊は小さく微笑んだ。
「どうか、悔やまないで下さい。村の皆さんにはよくして頂いて感謝してるんです。皆さんの為に、村の未来の為だというのなら、この身を捧げましょう」
本当は怖いだろうに、恐ろしいだろうに、菊は気丈に微笑んでいる。
「一つお願いがあります。私が居なくなった後、どうか…、どうか祖母の事を、宜しくお願い致します」
深く頭を下げた菊に隣家の夫は力強く頷いて見せた。



隣家の夫妻を見送ると、菊は祖母の寝室をそっと覗いた。
締め切ったカーテンの向こうから太陽の光が差している。
ベッドの上には祖母が力無く横になっていた。
ベッドに歩み寄り、その脇にしゃがみ込むと祖母を窺う様に優しく声を掛ける。
「…お婆ちゃん?」
「…ッ!、菊…!ぁあ!…きく…ッ!!」
涙声で返答があった。その弱々しい声に菊は祖母の体を布団越しに抱き締める。
途端に布団の中から祖母の咽び泣く声が聞こえ始めた。
「〜ッこれから!これからだったのに…ッ!菊の幸せな未来が…来る筈だったのよぉお!!!」
「〜ッ!…お、お婆ちゃん…ひっ、ぅうっ!!」
布団から這い出した祖母は菊を力一杯抱き締めた。その細い腕は頼り無い程に震えている。
そして、菊は祖母の腕の中でようやく涙を流す事が出来た。気丈に振る舞っていても、死というのは恐ろしい。
ギルベルトとの未来も閉ざされた。これを絶望という他に無い。
「…菊、お願いよ…!村から逃げておくれ!誰も手の届かない所へ!」
祖母の皺々の手は菊の頬を包み込んで、お願いだとばかりに翡翠の瞳を真っ直ぐ菊に向けた。
「…駄目です。そんな事したら、子供達と村が大変な事になります」
ふるふると頭を横に振った菊に祖母は更に瞳を潤ませて涙を流した。
祖母の気持ちは嬉しい。出来るならそうしたい。下山する前ならきっと逃げていただろう。
だが、村に降りて来て初めて触れ合った村人達は皆暖かく優しかった。孤児院に居るギルベルトの弟ルートヴィッヒはギルベルトの唯一の肉親である。そしてルートヴィッヒは御伽噺を読み聞かせてくれ、ギルベルトの事を沢山教えてくれた。菊にとっても弟の様な可愛い存在。そんな人達を見捨てるなんて出来ない。
骨張り、小さくなった祖母の肩に頬をあて、「お婆ちゃん、ありがとう」と囁いた。

一度見えた光は眩しく、希望に満ちていた。その光が闇の中に閉ざされた今、望む事はただ、祖母とルートヴィッヒの安寧。村の平穏と発展。そして最愛の人ギルベルトの幸せである。
この身を捧げる代わりにどうか、この願いも聞き入れて下さい。と教会の十字架を思い浮かべて、神にそっと祈った。





その日から菊は村の役所である地下へと連れられる事になる。事実上の監禁だ。
祖母は追い縋って菊を引き止めようとしたが、隣家の夫妻によって家の中へと引き戻された。
見送る群衆にはスコットやショーン、更に毎朝牛乳を届けてくれた青年、服を譲ってくれた夫人、菊の話し相手となってくれた子供達、家具の新調を請け負ってくれた男性等、菊に親身になって接してくれた者達が悲痛な面持ちで佇んでいた。その中にフランシスとアントーニョの姿も見える。
菊は多くの人達が気に留めていてくれた事に、悲痛な顔をしてくれた事に、改めて意思が固まるのを感じた。優しい人達の為に、村の未来の為になるのならば、この果ててしまう命も想いも救われる。そう思えた。

地下にある個室に光は差さない。
それでも個室全体をランプの光が明るく照らしてくれる。
木製のドアには小さな覗き窓があり、厳重に外から鍵がかかっていた。
部屋にはベッドと椅子、テーブル、囲いの向こうにトイレがある。
菊は部屋の中央にある椅子に座り、静かに目を閉じた。
村の為、村人の為、祖母の為、病に侵された子供達とルートヴィッヒの為、そしてギルベルトの為にこの身を捧げる。そこに迷いは無い。
だが、ギルベルトとの未来は?自分の未来は?
そう思えば思う程、やっぱり遣り切れない。
込み上げてくるものが抑え切れず、菊は掌で顔を覆った。
「…ッギルベルト、くん!怖い…です」
震える声で呟いたのは菊の本音だった。
死に向かうという事が恐ろしい。
痛いのだろうか?苦しいのだろうか?自分が襲われる痛みと苦しみを思えば身体が震えた。
飲み込まれそうになる悲壮に何とか意思を保てているのも、すべて祖母とギルベルト、ルートヴィッヒの存在があったからだ。
皆が幸せに健康に暮らしていけるのならばという思いだけで、菊の精神はギリギリの所で保たれていた。




短く荒い呼吸を繰り返すルートヴィッヒの頭に冷たい水に浸したタオルを載せる。
一向に回復の兆しも無く紫色の斑点は全身に広がり、白い肌が分からなくなっていた。
医師は見た事の無い病状だと言い、今は熱を下げる為に冷やす事と水分を摂る事を厳命し、今も医学書を片っ端から調べ続けている。
ギルベルトはルートヴィッヒの小さな手を握り、寝不足で疲弊した顔を悲痛に歪ませていた。
「…っ、にぃ、さ…」
か細い声が乾燥してカサついた唇から溢れる。ギルベルトは身を乗り出して握る手に力を込めた。
「ルッツ?…ッ大丈夫だ。兄ちゃんが側にいるからな」
ギルベルトの言葉に安堵したのか、ルートヴィッヒの目尻から涙が一筋流れて、また眠りに落ちる。
油断すると涙しそうになるのを堪えて、ルートヴィッヒの顔をタオルで拭ってやり、ギルベルトは再度椅子に腰掛けて祈る様に目を閉じた。
ルートヴィッヒが大事だ。代わってやれるなら代わってやりたい。苦しむ姿を見たくない。この病を治すには山神に贄嫁を奉納しなければならない。
だが、その贄嫁は他の誰でも無い、己の恋人菊だった。誰にも渡したくないと心から思える大切な人だ。
菊が贄嫁にならなければ、ルートヴィッヒどころか村全体が無くなる。人も家畜も全て亡くなるのだ。
ギルベルトはルートヴィッヒの小さな手を額に押し当てて奥歯を噛み締める。
『なんでっ…!何で菊なんだよ!!なんでクリスは逃げたんだ!!巫山戯んなよ!!…菊を奪わないでくれよッ!』
涙が滲み出そうになるのをグッと堪えて、ただ弟の回復を願い、菊の悲運を嘆いた。
そこへ「ギル」と声が掛かる。
顔を上げればフランシスが片手を上げている。
フランシスはギルベルトの隣に椅子を引っ張って来て腰掛けると、大きな息を吐いた。
「酷い顔じゃない。ちょっと休んできな?此処はお兄さんが看ててやるから」
眉を下げたフランシスにギルベルトは目を伏せる。
「…菊は?」
ルートヴィッヒの看病から抜け出す事が出来ずに菊に会いに行っていない。いや、行かなかった。その顔を見れば、行くなと引き止めてしまいそうだったからだ。弟の命を思えばこそ、引き止める事が出来ない。それでも菊には生きていて欲しい。大きく揺れ動き続ける感情に眠れない日が何日も続いていた。
「うん…、菊ちゃんね、役所の地下に監禁状態。ドア越しになら対話が許されてるよ」
「!、そうか…」
まさか監禁状態にまでされるとは想定外で、ギルベルトは胸を痛めた。太陽や青空が好きだと言っていたのに、地下に監禁されれば、目にする事も叶わない。何処までも菊を苦しめる村に、掟に、山神に怒りが沸き立つ。何よりも愛する人を助ける事も出来ない自分に激しい憤りを感じた。
「…ギル、話して来な?もう4日も無いぞ?此処はお兄さんに任せてさ」
「!4日…?」
残された時間が4日も無いなんて、自分の感情に精一杯で気付きもしなかった。
「時間は止まらない。きっと菊ちゃんはお前を待ってる。行ってやれよ…、頼むからさ。まだお前の言葉が届く距離だろ?ちゃんと話して来い。後悔するな」
「ーーッ、」
フランシスに肩を押されて、ギルベルトは漸く重い腰を上げた。
フランシスにルートヴィッヒの事を頼み、初めて役所の地下を目指す。

菊にちゃんと謝りたい。
自分の想いを伝えておきたい。

ただ、どんな顔をしたら良いのか分からない…




何日過ぎたのか分からないが、恐らく食事の回数から数えるに3日は経っただろうか?
その3日経った頃に、地下部屋のドアの向こうにギルベルトが現れた。

「…菊?其処に居るんだろ?」
ギルベルトの声に弾かれた様に顔を上げてドアに走り寄る。
「ギルベルト君!居ります!ここにッ!…いますっ」
ギルベルトの声を耳にしただけで涙が零れ出た。ずっと聞きたかった声だ。
目の前のドアが2人を隔てているのがもどかしい。
「菊…ッ許してくれ…、ごめん」
「?何故、ギルベルト君が謝るんです?」
「俺は…!俺はお前を守ってやれねえから!本当は連れ出して逃げたい!でも!!ルッツを…ッ、弟を見殺しに出来ねえんだ!!」
うう…。と嗚咽がドア越しに聞こえる。
菊はギルベルトの嗚咽を初めて耳にし、胸が締め付けられる様に痛んだ。
「…菊、愛してる。ずっと、一生菊だけを愛してる…!」
「ーーッ、」
言葉が詰まる。素直に嬉しいと思う。だが、ギルベルトには幸せになって欲しいのだ。素敵な人と結婚して、果ては子供に囲まれて余生を送ってほしい。
菊は掌を握り締めて、ドアを睨んだ。
「駄目です。貴方には幸せになってほしいんです。…私以外の方と幸せな余生を送って欲しいんです…っ」
「…何、何言ってんだよ!そんなん無理に決まってんだろ!」
「ギルベルトくん!」
菊が大きな声を張り上げれば、室内に大きく反響した。
掻き乱される。決心した気持ちが大きくグラつく。真っ直ぐに向けられる有難い程の好意に苦しくなった。
「お願いです…っ!ただ一言だけ言って下さい。贄嫁になってくれと…」
「ーーッ!?」
菊は願う様にドアに額を当てて、目を閉じる。
『ちゃんと言って』
『やっぱり言わないで』
相反する思いに心が乱された。
「…ギルベルト君、お願い…ッ!」
ギルベルトに言ってもらえれば、このグラつく想いもきっと固まる。
じわじわと歪み始める視界は、最早菊の靴先さえも写してはくれない。
頭の中がグラグラと揺れる。嵐に翻弄される鳥の様な不安定な心地で、苦しくて、寂しい。
唇を噛み締めて、嗚咽が漏れるのを我慢した。
ガンッ!とドアを叩く音がする。
ドアの向こうにはギルベルトしか居ない。音はギルベルトが発したのだろう。
「菊…、それでも、俺は…お前を誰かの嫁だなんて認めねぇ…!認めたく無え!……悪りぃ」
菊はギュッと目蓋を閉じて、大きく深呼吸した。
「…私の願いは、ギルベルト君の幸せです。どうか、私の分まで生きて下さい。絶対、幸せに…なって下さい。…ッお願い、します」
「…菊。俺…ッ俺は「もう行って下さい!」…」
ギルベルトの言葉をこれ以上聞いてはいけないと本能で悟り、大きな声で遮った。
「お願いします。…お願い!!!」
切迫詰まった菊の声音にギルベルトは奥歯を噛み締めてその場を後にした。
遠去かる足音を聞き、その場に崩れ落ちる。
ボロボロと溢れる涙は止まらない。
ギルベルトの言葉と存在が菊の意思を大きく揺るがした。
他の誰かじゃなく、自分がギルベルトの側に居たい。共に居たい。何より、生きていたいと強く思ってしまったのだ。
「〜ごめ、なさいっ!ギル…ッ、くん!」
せめて、残された時間をギルベルトの側で過ごしたかった。だが、今の様に心が、気持ちが、大きく揺らいでしまうから、もう逢えない。
『…貴方とただ、生きていたかった』
浮かんだのは、心からの本音だ。

地下室には菊の悲しみに暮れる泣き声が響き、見張りに立った村人の心を痛めた。



地下牢から飛び出して、ギルベルトはただ闇の中を我武者羅に走った。
足がもつれて転びそうになっても、何とか踏み止まり、また走る。
視界が歪んでいるのは、涙の膜が覆っているから。
逢いに行かなければ良かった。そうすれば痛い程苦しむ事も無かった。
でも、菊の声が聞きたかった。存在を感じたかった。想いを伝えたかったのだ。
随分と走って、息苦しさから足を止めれば、その場で膝から崩れ落ちた。
「ッ…ハァ、ハァ、ゲホッ!!…ッハ」
気付けば誰の姿も見えない小高い丘に来ているのに漸く気付く。
振り返れば役所の塔と教会の十字架が並んで見える。
「〜ッ、菊!…ルッツ!!!」
2つの建物には其々ギルベルトの大切な存在、失いたくない人が居る。
目の奥が痛くなり、胸と胃がキリキリと締め付けてきて苦しい。
「〜ッ俺は!!!…どうすりゃ良いんだよ!!!菊もルッツも大事なんだよ!!選べる訳ねえだろ!?…ッなん、で…、何で菊なんだよ…、何でルッツを…ッ」
ボロボロと涙が溢れ落ちて止まらない。
どちらにしても、喪うという理不尽なまでの選択肢に途方に暮れた。
握り締めた拳は震えて、皮膚に爪が減り込んで血が流れ出る。それでも握り込める力を緩めはしない。
それは何も出来ない無力な自身への小さな戒めのつもりなのだ。

《ずっと、ずっと離さないで下さいね》

あの時、菊は幸せそうにそう言った。
だから、絶対に離さないと誓ったのに。

力が欲しい。
菊を、弟を守る事の出来る力が…欲しい

大切な人を守る事の出来る力が欲しいとこの時ほど強く願った事は無い。

「ーーッ、ぐっ、ぅう…ッ!!」

ギルベルトは這い寄る絶望を背負い、1人その場で泣いた。



約束の夜は綺麗な満月だった。

「菊ちゃん…」
「…菊さん」
村人の沈痛な声音に唇の端がピクリと跳ねた。
送り出される側が、助かりたいと泣いて縋ってどうなる?子供達は?ルートヴィッヒは?…ギルベルトは?
紅をさした唇に力を入れ、何とか口角を吊り上げて微笑む。
「…皆さん、どうかお元気で…」
痛々しく微笑む菊の言葉に村人達の顔色が悲壮に染まる。
中には泣き崩れてしまう者もいる。あれはパン屋の奥さんだ。いつも明るく快活に笑ってくれた。その奥さんの震える肩を温める様に支えているのがパン屋の主人。いつも菊の顔を見ると笑みを浮かべて、パンやオヤツのおまけをしてくれる優しい人だった。
あの新聞屋の青年は眉根を寄せて俯いてしまっている。
ハーブの苗を分けてくれた老夫婦は共に支え合いながら、此方を悲しそうに見つめている。優しい笑みを曇らせて申し訳ないと思う。
菊は純白のドレスを靡かせて、松明の火で囲まれた舞台の中心部に真っ直ぐ歩いていく。俯いてしまえば、足が止まってしまう。そんな気がして真っ直ぐ前を見据えた。
舞台の上に向かう階段前にフランシスとアントーニョの姿がある。その反対側通路を挟む様に祖母クレアと隣家の夫婦が菊を待っていた。
「き、く…!菊!嫌だよ!何で!神様!私の…たった1人の…娘…なんだよ…!」
クレアは翡翠の瞳から涙を溢れさせて、泣き叫ぶ。そのクレアを隣家の夫婦が抱き締める様に抑え込んでいる。
クレアの悲痛な訴えに、菊の心には悲しみの雨が降り注ぐ。潤み出す瞳を我慢して、何度も瞬きをして耐える。
「菊ちゃん」
フランシスの声に、小さく鼻をスンとすずった。
「…菊ちゃん、ギルな、弟の看病しとるから、見送りは俺等でするからな」
「…はい。お願いします」
ギルベルトが居ない。
それで良かったのかもしれない。もう引き返せない運命に抗えないのだ。どんなに望んだって、ギルベルトの側には居られない。
この命が終わる運命は変わらない。
だから、もし来世があるなら、またギルベルトに会いたい。共に生きる事の出来る未来が欲しい。この命を神に捧げるのだから、一つぐらい我儘を言っても良いだろうか?
クレアの泣き叫ぶ声音に胸中で謝り「育ててくれてありがとう」と感謝を述べた。
フランシスとアントーニョにエスコートされながら、舞台の上に上って行く。
階段を一段、二段と登る途中で、菊は重ねられたフランシスとアントーニョの指先を小さく握り込んだ。それに気付いた2人は思わず足を止める。
「…お願いがあります」
聞き逃してしまいそうな微かな声量。少し震えている様だ。
「何でも言ってごらん」
フランシスは優しく菊の指先を親指で撫でる。
「ギルベルト君の事を…、彼は優しくて、真面目で…、実直な人だから、だから、私の存在が亡霊の様に彼を縛るなんて事が無い様に。ギルベルト君が前へと進んでいける様に、…ッ愛する人達に囲まれて生きて行ける様に、どうか支えて下さいませんか?」
震えている声音は恐怖からでは無いと気付いてしまったフランシスとアントーニョはギュッと唇を噛み締めた。
震えていたのは、泣き出すのを耐えていたからだ。
こんな事さえ無ければ、菊はギルベルトの隣で幸せになれた。誰よりも菊がギルベルトの側に居て、支えて、笑顔にしてやれた。…それが叶わない現実に悲観して、絶望している。それでもギルベルトには幸せになってもらいたい。菊という、しがらみの無い人生を歩んで行って欲しいのだろう。と確信にも似た境地で悟る。
「…ッうん、お兄さんに、任せて…」
「親分も…、約束はちゃんと守るで」
涙しそうになるのを耐えながら、菊へと歪な笑みを浮かべて任せろと承諾する。
2人の返答に菊はホッとした様な、悲しい様な、それでも嬉しいという感情が綯い交ぜになった、静かな笑みを浮かべて頷いた。

舞台に上がれば、マルコスが杖をついて立っていた。
「菊。其方を、神の花嫁として…」
粛々と進められる筈だったマルコスの言葉は途切れてしまう。
皺の寄った目元からは大粒の涙が溢れていた。
杖を握り締める手が小さく震えているのが見える。
そこで菊の胸中は不思議と凪いだ。
ここまで村人達が菊の為に胸を痛めて涙してくれている。村に移り住んでからというもの、村の仕組みや家畜の世話の方法、服を譲ってくれたり、食べ物を分けて貰ったりと様々な世話を焼いてくれたのだ。そんな暖かい人達の為に、この身が厄災の盾になるなら。と気持ちが固まって行くのを感じた。
「…神の花嫁として、この身を奉納致します」
自ら宣言した菊にマルコスは項垂れる様に目を閉じ「…すまぬ」と呟く。
菊は舞台の真ん中に立つと、此方を見上げる村人達に微笑んでみせる。その微笑みは達観した様にも見える優しく美しい笑みだ。
「皆さん、今日まで有難うございました。どうか皆さんは今を生きて…、明日を、未来を繋いで下さい」
菊の言葉に村の者から声が上がる。
「菊さん!あんた本当にそれで良いのかよ!?」
「!…はい」
今度は別の村人の声。
「菊さんはそれで大丈夫なのか!?」
「…大丈夫、です…ーーッ!?」
舞台の上から問い掛けに答えていれば、視界の端に、銀色を見つけた。
いや、見つけてしまった。
本当は舞台に上がった時から気付いていた。意識してしまうと、彼を見てしまう。そう思って目を向けなかったのに、いつのまにか銀色の髪の持ち主、ギルベルトは人集りの向こうから舞台の数メートル先にまで迫り、菊を真っ直ぐ見上げていたのだ。
ギルベルトの目元が痛々しい程に赤らんでいる。きっと泣き腫らしたのだろう。
ギルベルトの朝焼けの瞳が真っ直ぐ菊を見つめてくる事に、凪いでいた胸中は嵐の様に荒れ始めた。
ギルベルトの存在に気付いた村人達が道を開けていく。
そうするとギルベルトは簡単に菊の前まで進む事が出来た。
「…良いのか?」
静かに紡がれた問いに目を見開くと、ギュッと掌を握り締める。
「良いんです(嘘、全然良くない)」
「…大丈夫なのか?」
「ッ、大丈夫、ですよ(大丈夫じゃない!怖いです…)」
相反する想いが溢れてしまいそうだ。
これ以上は、もう無理だ。ギルベルトに縋ってしまう。助かりたい。生きたいと。
生きたいと願えば、村は?ギルベルトのたった1人の肉親である弟はどうなる?ギルベルトを1人にしたくない。
菊が更に掌を握り締めると、ギリギリと爪が食い込んで痛みが走る。
「…ギルベルト君」
「…なんだ、菊」
「さよなら…」
「!…」
さよならと告げ、無理に笑ってみせる菊にギルベルトはギュッと掌を握り締めた。
『…離さないと約束したんだ。あの夕焼けの映える田園で誓った。一生離さねぇぞって、俺自身に誓った。だから…』
「…だからこそ、約束は守るぜ」
ギルベルトは意思の篭った眼差しを再度菊へと向けた。
「菊!俺も一緒に逝く!1人になんかさせねえ!」
「!?、ギル…ッ、何、言って…〜ッ」
ギルベルトの台詞を否定しようとした声は大きく震えて詰まる。
「俺、頭悪りぃからよ、お前と一緒に逝く事しか思いつかなかった」
「〜ッ!」
カラリと笑うギルベルトに言葉を返せない。どうしようもなく、嬉しいと思ってしまったのだ。幸せになって欲しいと、生きて欲しいと願った人なのに。
どんな形であれ、共に居られるならと望んでしまった。
膝をついて涙する菊にギルベルトが一歩歩みを進める。
「…菊、怖かったな。もう大丈夫だ。絶対お前を1人にしねえ」
「〜ッ、ギル…ッ、くん…ッ!」
ギルベルトと菊の遣り取りを物語のワンシーンの様に眺めていた村人達。
フランシスとアントーニョはハッとすると慌ててギルベルトを引き止めようと駆け出した。

ーーゥオオオオオォォォ…ーー
「「「ーーッ!?」」」

突然反響した狼の様な遠吠えに、広場にいた全員に緊張が走る。
「山神様が来る前に家の中に避難するんじゃ!」
マルコスの緊迫した指示に皆が顔色を真っ青に染めて其々の家へと散らばっていく。
菊の祖母は隣家の夫婦に支えられて近くの家に避難した。
そしてフランシスとアントーニョに両脇を抱えられて引き摺られながら避難して行くギルベルトの姿。
ギルベルトの伸ばした指先は空を切る。
「クソ!離せ!離せよ!!菊!!〜ッ菊!!」
ギルベルトの菊を呼ぶ切ない声が遠ざかっていく。
『〜ッ、ギルベルト君…!』
必死に暴れているギルベルトの姿。そして悲痛に、苦しそうに顔を歪めたフランシスとアントーニョの姿を見て、菊は胸の辺りで拳を握り締めた。
「菊と!一緒に逝くって…ッ言ってんだろぉがぁあ!!!」
拘束を逃れようと滅茶苦茶に暴れるギルベルトをアントーニョとフランシスが必死に拘束するが、力の強いギルベルトにアントーニョが大きく舌打ちした。
「〜ッアホか!ルートヴィッヒどないすんねん!!お前ッ!…ッそれでも!兄貴なんか!?弟どないすんねんッ!!!」
「ギル!聞き分けろ!!どうする事も出来ないんだ!!菊ちゃんを困らせるな!!!」
「ーーッそれでも!「ギルベルトくん」!?」
吠えるギルベルトに凛とした声が響いて、思わず動きを止めた。声を発した方向を見遣れば、そこには眉を下げて笑う菊がいた。
「…ごめんなさい。連れて逝けません。どうか、私の分まで…ッ〜生き、て…!」
「き、く…」
「ごめん菊ちゃん、ごめんね…」
「菊ちゃん!…ごめんな!!」
フランシスとアントーニョの謝罪に頭を横に振ると、震える唇を噛み締めて涙するのを我慢する菊に、ギルベルトの胸は引き絞られる。
「菊!…菊ッ!!」
ギルベルトの手が再度伸ばされる。
視界の中でなら掌の中に菊の姿を納めてしまえるのに、届かない。
サァアッと冷たい風が流れ、菊の黒髪が舞い流される。
「愛してます、来世でも、ずっと…」
小さく呟いた台詞は風に乗って掻き消えてしまうが、菊の表情を見ていたギルベルトには唇の動きが読めた。
「ありがとう、ギルベルトくん」
覆い隠せない悲しみを誤魔化す様に、綺麗に微笑む菊からとうとう一筋の涙が流れ落ちる。
それを目の当たりにしたギルベルトの視界がグニャリと歪んで、涙が流れ落ちた。
どんどん離れていく距離に、どうする事も出来ない現状に、目の前が見えなくなりそうだった。
「〜ッ菊!!クソッ放せよ!!!〜ッ菊!!うああああああああああッ!!」


遠去かるギルベルト達3人が離れた場所にある建物の影に避難したのを見届けると、菊は這い寄る恐怖と絶望に諦めにも似た心地で肩の力を抜いた。
嗚呼、何故一瞬でもギルベルトと一緒に居られるなんて思ってしまったのだろうか。
彼にはルートヴィッヒが、友人が、未来があったのに。巻き込んでしまう所だった。あの心優しいルートヴィッヒを天涯孤独にしてしまう所だったのだ。
自嘲気味に笑みをこぼすと、菊は顔を伏せた。

ふと肩にふんわりと暖かい温度。
菊がパッと目を見開くと肩には身体が白く、嘴と目が黒い小鳥。あの小鳥だ。
「!…さあ、貴方もお逃げなさい。此処は危ないんですよ?」
小鳥の身体を引き離そうとするが、足先に力を込めていて離れてくれない。
「どうしたんです?お利口さんだから、言う事を聞いて?」
菊の困り果てた顔をじっと黒い瞳で見つめてくる小鳥は『決して此処を動かぬ』とばかりに強い意志を宿していた。
どうやら側に居てくれる様だ。
危ないのにと心配する気持ちとは裏腹に、性根では安堵していた。
迫り来る恐怖に、一人で立ち向かうのが不安で怖くてどうしようも無かったのに、小鳥といえど側に居てくれる存在に泣きたくなる程、救われた心地になったのだ。
「…一緒で良いんですか?」
ーーピィッ!!
「ッ〜〜!あ、ありが…とうッ」
小さな存在を抱く様に掌で抱き締めれば、思い出した様にポロポロと大粒の涙が溢れた。

そんな舞台の様子を家の中から悲痛な心地のまま眺めている村人達がいた。
ギルベルトもまた拘束され捩伏せられた地面から震える菊を歯痒い想いで見つめる。
「…ッ、」
何とか菊の元に駆け付けたいと藻搔いても、1センチだって動いてくれない身体。大の大人2人に拘束される関節がギリギリと痛む。
誰にも、神にだって渡したく無い存在が菊だったのに。
弟が居なければ、間違いなく菊を連れてこの村から逃げていた。
だが、ギルベルトには弟の命を天秤にかける事が出来なかったのだ。弟も菊も大切だ。そして菊が愛おしいと言ったこの村も。
胸が張り裂けそうだ。
どうやったって、誰かが死ぬ。
その誰かが、弟か菊かなんて…。
どうして大切な人をこの腕の中に隠しておけないのか、無力な己に悲観して散々泣き枯らした筈の涙がまた頬を伝う。
今まで考えに考えた。
「…ッせよ!…頼むから!離せ!!」
必死に懇願するギルベルトにフランシスとアントーニョは瞳を逸らした。
「〜ッ頼むよ!!…なあ!!離せよ!!!」
喉の奥が掠れて痛い。それ以上に頭と心が痛かった。
考えた末に出した極論は菊と共に逝く事だった。弟には悪いと思うが、弟が生き永らえるのならば良い。孤児院には友人達やマザー、シスターだって居る。きっと弟を支えてくれる。弟と村人が平穏に暮らせるのならばそれで良い。
だが、菊の側には誰が居てやれる?支えてやれるというのだろう?その役目は自分以外に居ない。誰にも譲りたく無い。
菊を守ってやれるだけの力が無いのならば、せめて側に居たいと願った。一緒に逝けば、死してもずっと一緒に居られる。
「クソッ!!お前ら邪魔すんな!!!」
「ギルベルト!!」
「!?」
がなり立てるギルベルトを一喝したのは、普段の柔らかい軟派な印象からかけ離れ、悲壮に顔を歪めたフランシスだった。
「…ごめんな。ごめん。耐えろとしか言えなくて、〜ッ、ごめんな」
ポロリと溢れ落ちたのは涙。
初めて見るフランシスの涙だ。
「…ギルちゃん。堪忍やで。俺かて…、みんなもやけど…、メッチャ辛いんや。ギルちゃんと同じぐらいやなんて烏滸がましい事は言えんけど、菊ちゃんは俺等にとって家族みないなモンや。それだけ心が痛いんや…。菊ちゃんの為にもギルちゃんを逝かす訳にはいかん。どんな気持ちで菊ちゃんがさよなら言うたか…、分かるか?」
アントーニョの言葉が胸を抉る。
彼の最後の台詞の続きは容易に想像できた。
きっと、ルートヴィッヒの事だろう。
菊なら…、あの心優しい少年を一人にするなと、自分の命で少年達が救われるのだから。と続くのだろう。
菊ならそう言うのだ。
再び視界が涙で歪み出した。
「〜ッけど…!!俺はッ!!!」

【確かに受け取ったぞ】

脳内に響き渡る様な恐ろしい声にピクリと肩が揺れる。ゾワリと背筋に冷気が流れ込んでくる感覚だ。
咄嗟にギルベルトは固まって拘束を緩めたフランシスとアントーニョから逃れて、ガムシャラに駆け出す。
「ギル!!」
だが、駆け出した瞬間、カッと辺りが白い閃光に包まれた。
あまりの眩しさに、目を腕で覆い隠した。暫くして光が収まると、ギルベルトはチカチカする視界で必死に舞台へと駆け寄る。
「くっそ…!菊!…何処だ!菊ッ!!」
漸く視界がクリアになってくると、ギルベルトは飛び込んで来た光景に息を飲んだ。
舞台の上には菊が身につけていた白いヴェールだけが、持ち主を失って其処にある。
辿り着いた舞台の上に、菊が居ない。
「…、き、く…」
遅かった、連れて逝かれたと悟った瞬間、ギルベルトの中で何かがバラバラと崩れ去ってしまう。
《ありがとう、ギルベルトくん》
脳裏に過ぎるのは菊の最期の言葉。
そして、あの光景が蘇る。

ボロボロと溢れ出る涙が止まらない。
側に居てやれなかった。共に逝ってやれなかった。1人で逝かせてしまった。
押し寄せる感情は言い表わしつくせないほど苦しい。



山神に対する憎悪。
己に対する軽蔑と苛立ち。
この苦しい胸の内に去来する激しい喪失感…。

そして自身は無力で未熟な子供だったのだと痛い程に思い知らされた。

「ぁ…、ぁあ、…ックソがぁああああああああああッ!!!!」

振り絞る様に咆哮するギルベルトにフランシスとアントーニョは何も言えないまま、ただ這い寄る虚無感に襲われ、静かに見つめる事しか出来なかった。
「〜ッ何が神だ!!ッ何が山神だ!!!」
ギルベルトは目を大きく見開き、虚空を睨み上げる。綺麗な満月が今は何の感慨も湧かない。込み上げてくるのは神に対する怒りのみだ。
誰かの命で誰かの命が助かる?
恋人の命で弟の命が助かる?
こんなの神のする事じゃない。

そうだ…、山神とやらは、悪魔だ。
あの悪魔は人間という動物…いや、家畜で遊んでいる。

ギルベルトの中では沸々と山神に対する憎悪が湧き立ち始める。
グラグラと腹の底から熱いまでに沸騰する怒りと憎しみ。

「絶対にっ、赦さねえ…!!!」

濁った赤の瞳に月明かりが鋭く反射していた。
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