数十分をかけて山を登る。
道中はギルベルトの手を借りて岩を登ったり、岩を飛び越えながら川を渡ったりと険しい道に文句一つ言う事無く、菊はギルベルトの背を追い続けた。
標高が高いと気温が低くなる。酸素濃度も少しだけ薄い。
乱れた呼吸を整えて、見晴らしの良い拓けた場所から景色を眺めた。
空が近く感じる。降り注ぐ陽光が暖かい。樹木が色付き始め季節の移ろいを楽しめる。空気は気持ち良い程に澄んでいて、思わず深呼吸して肺いっぱいに堪能した。
遠くに小さく見えるのは村の教会だ。
村の周辺には緑が広がり、先駆者達が汗水流して開拓して来たのだと改めて感じる事が出来た。
「すげぇ久々に登ったぜ!やっぱ山は気持ち良いな!」
両腕を大きく広げて眼下に広がる景色を気持ち良さそうに眺め、隣の菊に微笑む。
「そうですね!なんだか懐かしいです」
村に降りてから既に2ヶ月の月日が経ち、久々に登った山は菊の心を穏やかにしていた。
そうやって嬉しそうに目を細めて微笑む菊にギルベルトは一抹の不安を覚えた。
「…山に帰りてぇか?」
さっきまで気持ち良さそうに笑っていたギルベルトが少しの不安を滲ませて問い掛けてくる事に菊は僅かに驚く。
「そ、うですね…。山は好きです。でも、今は村の人達も生活も好きですから帰りたいとは思わなくなりました。それに、…貴方も居ますから」
頬を染め、指先を合わせて遊ばせながら目を伏せた。
菊の返答にギルベルトの顔色は真っ赤に染まる。
菊の正直な気持ちを正しく受け止めたギルベルトの心臓は煩いほどに鼓動していた。
「お、おう!そうだろー!…み、水!あそこの谷で水汲んでくっから、1人で行動すんなよ!熊が出るかもしんねーし!」
「あ、はい…」
持参していた皮製の水筒を手に、ギルベルトは慌てて谷に向かう。その耳も首筋も真っ赤に染まっているのが菊にも見えた。それが伝染したかの様に菊の全身も真っ赤に染まっていく。
頬を両の掌で挟み込み熱を治めようとするが、その行動はじわじわと熱くなる頬を実感するはめになっただけだった。
『〜ッ熱い…!』
はあ。と大きく息を吐いて岩から腰を上げ、登ってくる途中で採ったキノコを選り分ける作業に入る。
キノコに着いた枯葉や土を手で払い落としながら、キノコ料理を頭で浮かべる。これだけ美味しそうなキノコを料理すれば、きっと祖母は翡翠の瞳を嬉しそうに細めるかもしれない。そう思えば自然と鼻唄が出てくる。幼い頃、祖母から教えてもらった歌だ。村に古くから伝わる童謡の様なモノで、祖母の祖母、そのまた祖母からと代々教えられて来たらしい。
菊はこの歌が好きだった。そして最近になってギルベルトが偶に歌う鼻唄も好きになった。菊は元来歌が好きなのかもしれない。
フンフフンと機嫌良く歌っていれば、遠くから鳴き声が聞こえてくる。
ーーゥン、キュゥウン。
菊は手を止めて顔を上げる。
「?…空耳でしょうか?」
耳を澄ませてみるが、今度は何も聞こえない。空耳だったのかと一人納得し、またキノコに視線を落とした時、またキュゥウン、キュウン!と聞こえてきた。
今度は空耳じゃないと思い、菊はキノコを籠に戻して、鳴き声の聞こえてくる方へと歩き出した。
その声は鬱蒼と茂る藪の奥からだ。
切なげに助けを求める様な鳴き声に菊は腰に差していた鉈を握り締めて足を踏み込ませた。
ーーキュン、キュウン
枝を掻き分け、足元に絡みつきそうな蔓を鉈で切り落としながら進めば、鳴き声は明瞭なものになる。
漸く視界を邪魔する太めの枝を切り落とした時、菊の目に飛び込んだのは、枯葉に包まれながらも必死に逃げようと身動ぎする小さな子犬が居た。淡い金色の毛並みに赤い瞳は神秘性を感じる。
しかしその子犬の前足は猟のトラップであるトラバサミに挟まれて、痛々しい程に出血していた。
罠の中央の板に獲物の足が乗ると、ばね仕掛けによりその上で2つの半円型の金属板が合わさり、脚を強く挟み込む仕組みだ。
罠に掛かった動物に長時間にわたる苦痛を与え、決して逃がさない。脚を挟む板には鋸歯状の歯が付いていて、深く食い込んでいた。
大型獣用のトラバサミでは、人間が誤って踏むと脚の骨を粉砕するほどの威力を持つ物もあると、隣家に住む木こりから聞いた事がある。恐らくこの罠は熊や猪の為の罠だったのだろう。
小さな前足がよく斬り飛ばされなかったと心底安堵した。罠は錆びてボロボロだが、残念な事にしっかり機能しているようだ。
菊が近寄れば子犬は近づくなとばかりに歯をむき出しにして威嚇する。
菊は安心させる様に、殊更声音を優しくして子犬に微笑んだ。
「大丈夫です。コレを外すだけです。もう痛い事はしませんよ?」
後退りしようにも足が動かず、子犬は縮こまる様に菊を見上げてくるだけだ。
菊は錆び付いたトラップを観察し、血を流す前足から離れた箇所に鉈を捻じ込み、トラップの口を開けさせようとする。
しかし錆び付いたトラップは簡単に開きそうも無い。
それでも梃子の原理を頭の中で組み立て、必死に鉈の手に力と体重を込める。
「〜〜んんんッ!!」
するとトラップの金具がギギギと音を立てて少しずつ綻び、開き始めた。
奮闘する菊を子犬はジッと見つめている。
菊がもう少しだと更に力を込めた瞬間、子犬は前足を引っ込めトラップから無事脱出する事が出来た。
「よ、良かった…ッ良かったですね…」
額に浮かぶ汗を手の甲で拭い、子犬に笑い掛ける。そして、ポケットからハンカチを取り出し子犬の前に手を差し出した。
子犬は驚いた様に一歩後退り、菊の様子をジッと観察している。
「足、診せて下さい。まだ血が出てますから、手当てさせてほしいです」
恐る恐る子犬は菊の差し出してきた指先の匂いをスンスンと嗅いで、大人しくその場に座った。
良かったと安堵した菊は血の流れる子犬の足を手に取るが、関節が曲がった瞬間に痛んだのか子犬は小さく悲鳴をあげて菊の手にガブリと噛み付いた。
「!痛ッ…、」
グゥと唸る子犬は口を離そうとはしない。
菊はそのまま子犬を抱き上げて懐に抱え込み、ガタガタと震える子犬を温める様に撫でた。
「大丈夫、大丈夫です。ごめんなさい、痛かったですよね」
子犬の淡い金色の様な珍しい毛並みは柔らかく、暖かい。
徐々に子犬は唸る事をやめ、菊の手から口を離すとフスフスと鼻を鳴らして菊を見上げてくる。どうやら許してくれたらしい。
菊は子犬の頭に礼のキスを送ると血を流す足にハンカチを巻いて固定した。




ギルベルトは皮製の水筒を冷たい谷の水に浸して中身を補充する。
赤い頬は谷の冷たい空気で冷やされていた。
「…アレってよ、脈有り…だよな?」
先程の菊の言葉を思い起こす。
“それに…貴方も居ますから”
頬を染めた菊の姿は、いくら鈍感だと言われるギルベルトでも分かる程、好意を向けてくれていた。
マジかー。と一人呟き、また頬を真っ赤に染めて意図せず口端が釣り上がる。
「流石俺様だぜー!カッコイイってのは罪だな!ケセセ!!」
手にしていた水筒を水面にバシャバシャと叩きつけてしまった為、水底の砂が舞い、水が濁る。当然蓋をしていない水筒の中にも砂が入ってしまう。
あ、やべ!とギルベルトは我に帰ると、水筒の中を確認する。
案の定中は濁った水が入り、とてもじゃないが飲めたものじゃない。
もう少し上流で水の汲み直しだ。
「あー、ついてねーな」とボヤきながら2メートル程上流に歩き、また綺麗な水を水筒に補充する。
水筒に満タンになった所で腰を上げて水筒の栓を締めた。
「早く戻んねぇとな」
残してきた菊が心配するだろうと足を踏み出そうとすれば、ふと視界に白い物が目に入る。
なんだ?と訝しむ様に目を凝らせば、それは随分高い木の先端に引っかかり、ヒラヒラと風に揺れていた。
良く良く見てみれば、それは白いヴェールだった。
「…ッ!?」
ギルベルトは一気に蒼褪め思わず口元を掌で覆い隠し、そのヴェールから目を逸らした。
あのヴェールは、あの満月の夜に山神に嫁いだ贄嫁のヴェールだ。
何故あんな所に?と思考するより先に身体は弾かれた様に動き出す。
もう贄嫁に選ばれる事は無い。と分かってはいても、残してきた菊が脳裏を過ぎり不安に駆られた。
急いで戻れば、其処に居る筈の菊が居ない。有るのはキノコの入った籠と鞄だけだった。
「ーーッ菊!菊ー!!何処だ!!」
大声で叫べば辺り一帯にギルベルトの声が響いて返ってくる。
その時、藪からガサガサと蠢く音がした。ギルベルトは腰に差していた鉈に手を乗せて注意深く藪に目を凝らす。
そして藪から出て来た存在にギルベルトは警戒心を解いて、ドッとその場に座り込んだ。
藪の中から現れたのは探していた菊だった。
菊は驚いた様に座り込んだギルベルトに駆け寄ってくる。
「え!?ギルベルト君!?どうしたんですか?」
「…あー、何でも無えよ」
ホッと息を吐き、ギルベルトは菊の太腿に釘付けになった。
菊のベージュのズボン、太腿の辺りに血の痕がついていたのだ。
「おっ前!どっか怪我したのか!?」
バッと顔を上げれば菊は目を瞬かせてから、ああと頷く。
「さっきトラップに掛かった子犬を助けたんです。その時に子犬の血が付いてしまったんですよ」
クスクスと笑うが、菊の手に噛み跡があるのを見つけてしまった。
子犬にでも噛まれたのだろうが、血の痕が残っている事から痛々しく見える。
ギルベルトはズボンからハンカチを取り出し、水筒の水を手に菊を岩の上に座る様に促した。
「ほらそこ座れ。ちゃんと手当てしとかねえと、バイ菌入んだろうが」
「あ…。ふふ。ではお願いします」
菊の白く細い手に水をかけて洗い流す。一応バイ菌が入らないようにハンカチを巻いてやり処置を終えた。
礼を言う菊の頭を撫でて、キノコ料理でチャラにしてやると言っていれば藪の向こうからカサカサと音がする。
ギルベルトはハッとしたように菊を背中に庇うと鉈に手を置いた。
カサカサと藪から転がる様に出て来たのは小さな金に近い白い子犬だった。その身体には枯葉が張り付いている。
背後で菊が「あらまあ」と僅かに驚きの声を上げた。
その子犬の足には薄い水色のハンカチが巻かれている事から、菊が助けたという子犬だと予測する。
子犬は左前足を庇いながら尾を振り、ギルベルトの目の前までピョコピョコと駆けてくる。見上げてきた子犬の瞳はギルベルトと同じ赤だった。
「!?」
ギルベルトはその子犬に驚き、訝しむ様に睨む。
そんなギルベルトの横を通り過ぎて菊は子犬の目の前で膝を折り座り込んだ。
「子犬さん、ちゃんとお帰りなさいな?どうしたんですか?」
首を傾げる菊に合わせて、子犬の頭もポテと横に傾いた。尖った耳をピクリと動かし、菊だけを凝視していた。そのさまがギルベルトには何だか気に食わない。
ギルベルトは子犬の首根っこをビロンと持ち上げる。
「わっ!ギルベルト君、乱暴しないで下さいね?」
「わあってる。って、オスかよコイツ」
下半身が振り子の様にブラブラと揺れる子犬の表情はキョトンとしている様だが、げっと嫌そうな顔をしたギルベルトと目が合うと険しい顔になってしまった。
『あ、コイツ嫌い』とは両者が同時に思った事だ。
ギルベルトはそのまま藪に向けて歩くと、落ち葉の積み重なった場所へと子犬を置き去りにして菊の元に戻るが、背後からカサカサと落ち葉を踏み鳴らす音が聞こえる。
その音の根源が簡単に予想出来、ヒクリと口端が引き攣り、足を止めた。
振り返れば案の定あの子犬がそこに居るではないか。
「おい、お前ちゃんと帰れ!菊はお前の母ちゃんじゃ無えぞ!」
威嚇しながら、シッシッと手で払えば子犬はツンと鼻先を上げてギルベルトを無視し、菊の元へと走り出す。
「〜ッンのクソ犬!」
子犬はキュンキュンと甘えた鳴き声を上げながら菊の足元に頭を擦り付けいる。媚の売り方が気に入らない。
不機嫌なギルベルトに菊は眉を下げてギルベルトを宥める。
「お、落ち着いて下さいね?ギルベルト君」
「…落ち着いてるっての」
唇を尖らせるギルベルトに菊は苦笑しか出てこない。
足元の子犬は菊のブーツの上に張り付いて離れそうになかった。
菊はしゃがみ込み、子犬を優しく見下ろす。
「ほら、もうお帰りなさい?」
菊に返答するかの様に、子犬は鼻をスピスピ鳴らせて菊の足に擦り寄って甘える。
帰りたくない?遊びたい?もしくは帰れないのだろうか?
子犬が1匹だけでここに居るのはそんな理由だろうか?母犬の姿が見えないどころか遠吠えも何も聞こえてこない。聞こえるのは鳥の囀りだけだ。
逸れたのだろうか?と思考が行き着くと菊は子犬を抱き上げる。
ギルベルトはギョッとしたように目を丸くする。
「おっ、おいおい、まさかソイツ連れて帰んのかよ?」
「連れて帰ります。こんな所で独りぼっちなんて可哀想ですし、それにこの子、何だか痩せてませんか?」
腕の中の子犬を慈しむ様に撫でれば、子犬は目を細めて気持ち良さそうにキュウと鳴いた。
ギルベルトは盛大に嘆息すると頭を掻く。
確かに辺りに母犬の影は見当たらない。子犬の健康状態も良くは見えないし、何より足の傷が気にかかる。
うーむと唸るギルベルトを不安そうに菊が見上げてくる。それが決定打だった。
「…しゃあねえか」
ポツリと呟いたギルベルトに菊は目を輝かせて頷く。
「ギルベルト君、ありがとうございます!」
「!、おう…」
菊は子犬の頭に頬擦りして喜びを表していた。菊の喜ぶ顔が見られるなら、それで良いか。とギルベルトは結論付けると下山を促した。



子犬を連れて自宅に戻り、菊は早速子犬の身体を温めのお湯で汚れを綺麗に落としてやり、傷の手当てをしてやった。
磨り潰した薬草は動物にも効くのかどうか分からないが、薬草の量を減らして調整してみる事にした。
案の定、傷口は化膿しジクジクと汁が出ていた。
治療すれば、また噛まれてしまうだろうが仕方ない。と菊がゴクリと唾を飲み込んだ時、ギルベルトが子犬を膝の上に抱き上げた。
「また噛まれんだろ?俺が抑えててやっから」
「!助かります。お願いしますね」
ギルベルトの大きな掌が子犬の顎を上向きにして固定し、怪我をしていない足を除いた身体と足を抑えた。
当然子犬はヤメロとばかりに不満を露わに拘束を逃れようとするが、ギルベルトの腕はビクともしない。
「ごめんなさい。直ぐに終わらせますからね?」
小さな前足に薬を塗り、ガーゼと包帯で固定する。驚いた事にその間、子犬はされるがままにジッとしていた。
「おー、大人しいな!」
固定した前足を頻りに気にしながら子犬は包帯の匂いを嗅いでいる。
その様子をギルベルトは眺め、菊は微笑ましいとばかりに頬を緩めていた。
「で?コイツの名前どうすんだよ?」
ギルベルトは子犬を顎で指し示し、菊に問い掛ける。
「あー、名前ですよねぇ…。どうしましょうか?」
腕を組んで眉を寄せた菊に子犬が近寄り、その膝に乗り上げて丸まる。
コイツ…と思いながらもギルベルトは菊と共に名前の候補を頭の中に浮かべていく。
「そうだな…、チビ。ちっこいの。金色毛玉…とか?」
「…ちゃんと考えて下さい」
ギルベルトの候補に菊から批難の眼差しを向けられ、子犬はハンっと鼻息を鳴らした。わざとだろうか?
ぐぬぬと唸るギルベルトに菊は苦笑すると「んー、金色だから金ちゃん?」と安易な名前をポツリと呟いた。
「俺様の候補と変わんねえだろ…」
呆れた様な眼差しで菊を見下ろせば、膝の上に乗った子犬は菊の腹に頭を擦り寄せて甘えている。
「あら?気に入ってくれたみたいですよ!」
ドヤ顔でギルベルトを見上げる菊にギルベルトは大きく嘆息した。絶対贔屓だ。
菊の膝の上から子犬を取り上げて、床に降ろす。
「さっさとメシにしようぜ?腹減ったし」
もう名前なんて何でも良いと思い、ギルベルトは窓の外を見遣る。
窓の外は黄昏時に染まっていた。
「大変!急いで準備します!」
ギルベルトはまだ孤児院に身を寄せている。夕食は菊と共に摂る事が多いが、門限の7時には孤児院に戻るようにしているのだ。
バタバタとキッチンに向かう姿を見送れば、子犬…金ちゃんも菊の後を追いかけて行く。
「…懐き過ぎじゃね?」
ポツリとその場に残されたギルベルトの呟きは虚しく響いた。
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