ギルベルトは村の石畳の道をどこか浮ついた心地で歩いていた。
季節は秋。早朝特有の清々しい匂いを含んだ冷たい風に鼻先を少し赤くさせた。頬も耳も冷たい。もうあと幾日過ぎれば本格的な冬になる。
向かい風に吹かれながら、漸く目的の家が見えてくると、忽ち緋色の瞳を輝かせて足取りは軽くなった。
まだ周りの家々と違い、新しい屋根と外壁の頑丈な石造りの家。そこは菊の家だ。
今日は菊と久々に山に登る約束をしていた。ついでにキノコを採取する予定でもある。
菊としてはキノコ採りがメインなのだが、ギルベルトとしてはキノコより菊と過ごす時間の方が貴重だ。
玄関扉をノックしようとした手を止めてギルベルトは目を数回瞬かせる。
ザック、ザック。と裏手の方から音が聞こえる。この音はギルベルトの耳にも良く馴染んだ音ーー土を耕す音だ。
音の鳴る方へと足を向け、玄関扉の前から家の傍を通り裏手の畑へと顔を覗かせた。
其処には高い位置に髪を結わえ、汚れた白のシャツにベージュのズボンを履いた菊が、白い息を吐き出しながら細腕で鍬を振るっている。
足元の土は綺麗に掘り起こされ、畑の傍らには新しいハーブの苗がある。恐らくその苗は近所の農夫からだろう。菊の穏やかで優しい性格は村の者達を惹きつけて止まない。ギルベルトが僅かに嫉妬してしまうぐらいにだ。
菊は鍬を杖代わりに片手を置き、右手は腰をトントンと叩いていた。畑仕事は腰にくる。
ギルベルトは小さく苦笑すると上着を脱ぎ、菊の持つ鍬を横からスッと掠め取る。
「!、ギ、ギルベルト君!?おはようございます。気付きませんでした」
菊は大きな瞳を更に大きくして突然現れたギルベルトを慌てた表情で見上げた。
「よ!俺様が手伝ってやるぜ!鍬使いなら任せろよ」
シャツの袖を折った出で立ちのギルベルトに菊は申し訳無さそうに苦笑すると、素直に場所を譲った。腰が痛かったから助かったと胸中で息を吐く。ギルベルトのジャケットは農具の上に汚れないように掛けられていた。

鍬がザクンッザクンッと力強く土を掻いている音は菊が耕す音とはまるで違う。
耕される土の量も多い。これなら直ぐに終わりそうだ。
『男の人の力って凄いんですね…』
山の中で祖母と育った菊には、大人の男という存在がほど遠く、未知の生き物だった。
自分より何倍も大きな体躯で低い声だと知ったのは下山した時の事で、まだ馴染めない。ギルベルトも幼い頃と比べて格段に体躯や印象まで変わっていた。
男とは不思議な生き物だと菊はしみじみ思う。
菊の視線は鍬を握るギルベルトの手から腕、肩、腰、足に注がれる。目で見える箇所は筋肉が隆起し、筋が浮いている。菊には無い筋肉の付き方だ。その胸や腹、太腿はどうなんだろうか?と菊は真面目に思考するが、ギルベルトが手を止めた事により思考を中断した。
「どうかされました?」
「いや、お前俺様の事見過ぎな。エッチ」
「ーーッ!?なっ!ち、違います!」
ニヨリと笑みを浮かべたギルベルトに菊は真っ赤になる。確かに凄い筋肉だと思って身体を観察していた。だが、エッチとは心外だ。
真っ赤に染まった菊を見てギルベルトはむず痒い物が胸を震わせる感覚に更に笑みを深めた。
己の言葉一つで菊を動揺させて真っ赤にさせる。それだけの事がじわじわと喜びを齎らす。
「エロい目で見てたくせによ〜」
鍬に手を乗せ、その上に顎を置きニヨニヨと菊の慌てる姿を気分良く眺める。
「エロい訳無いです!その服の下はどんな身体かって…ッあ…そんな如何わしい意味じゃなくてですね!?ただ男の人の筋肉の付き方を解析してただけですよ!!」
ワーワーと両手を左右に振り弁明する菊が可愛い。
「なら、俺様の身体見てみっか?」
ピラッと胸元を手で引っ張って見せれば、菊は涙目になって「〜ッ意地悪!」と叫ぶ。
ギルベルトの肌けた胸元に思わずゴクリと唾を飲んでしまった。蒸気したギルベルトの白い肌は僅かに赤みを帯び、色香が匂い立つようで、ゾクリとした感覚を必死に誤魔化す。
「ケセセ!照れんなよ。ほら!さっさと終わらせて出掛けんぞ!」
ギルベルトが鍬を握り直した事に菊も咳払いをして、苗を植える準備を始めた。その頬はまだ赤く、それを横目で見たギルベルトはふくふくと暖かい気持ちに鼻唄を歌う。
それは教会で習った愛の讃美歌。


鍬等の農具を片付けたギルベルトは家の中に入る。数刻前に家に戻っていた菊が朝食にとコーヒーとパンを準備していた。ギルベルトに気付いた菊が笑みを浮かべて礼を述べる。
汚れたシャツとズボンから部屋着にしているワンピースに着替えた菊は先程の活発な印象から貞淑な印象へと変わる。
長い黒髪は後ろに緩やかに編み込まれていた。
ギルベルトは用意されたコーヒーとパンを有り難く頂きながら、菊の後ろ姿をニヨニヨと眺める。何だか夫婦みたいだな。とまだ見ぬ幸せな未来を想像した。
ギルベルトがコーヒーを飲んでいると、玄関扉がトントンとノックされる音が響く。菊が洗い物の手を止めてエプロンで手を拭きながら「はーい」と声を上げて玄関の応対に向かう。
『…朝から誰だ?』
ギルベルトは訝しむように眉を寄せ、コーヒーをテーブルに置き、菊の後を追いかけた。
そこには新聞を赤い頬で菊に差し出す青年とニコニコと新聞を受け取る菊。
新聞は基本的に設置されたポストに投函されるか玄関の扉に挟める筈だ。ノックして住人に手渡している姿など、ギルベルトは初めて目にした。
その青年の顔から見るに、下心丸出しだ。ギルベルトの顳顬にはピキッと筋が浮かぶ。
後ろ姿の菊にそっと忍び寄り、ギョッとする青年を無視して菊の薄い腹に腕を回した。
「ッ!?ギルベルトくん!?」
当然菊は驚きに固まり、手にしていた新聞をグシャリと握り潰す。
「…コーヒー美味かった。お代わりくれ」
菊の右耳に息を吹き込む様に甘く囁けば菊の身体はピャッと跳ねた。
蒼い顔で固まる新聞屋の青年に鋭い眼差しを向ければ、青年はヒッと引き攣った悲鳴を上げて走り去って行く。
『ったく!次からは手渡すんじゃねえぞ!』
胸中で悪態を吐いて腕の中の菊を解放する。
未だに真っ赤な顔で口をパクパクさせる姿は魚のようだ。
そんな姿が可愛くも可笑しい。
「ケセ!菊?どーしたよ?」
ギルベルトが内心ニヨニヨとした心地で菊に問い掛ければ、菊はハッとした様に目を泳がせる。
「な、なんでも、無いです!お、お代わりですね!直ぐ、直ぐに用意します!」
ギクシャクと固い表情と動作を見せる菊の腕を掴み微笑んだ。
「!!う、ううう腕…ッ!」
「お代わりはいい。それより早く出掛けねえ?」
「…は、はい」
優しく微笑むギルベルトに思わず見惚れてしまう。
菊はジワリと胸に広がる暖かい心地に幸せを感じた。
「じゃ、俺様が片付けとくから、ちゃんと着替えて出掛ける準備しとけよー」
背を向けてキッチンに歩き出したギルベルトを見送る。

もっと色んなギルベルトを見たい。
そしてその表情は自分だけが独占したい。

そう思い至った感情に思わず目を丸くした。
いつの間にかギルベルトを独占したいと思い始めていた事。ずっとギルベルトの事を考えては一喜一憂してしまう事。
これは、この感情は祖母が言っていた〝恋〟という感情なのだろうか?
〈恋…。ギルベルト君が好き。〉
もやもやとしていた気持ちがスッと晴れた代わりに、菊の胸の辺りがジワジワと暖かくなる。

『…私は、ギルベルト君が好きなんですね』

漸く気付いた己の感情は胸の奥底にじんわり水中に溶け込んでいくような安堵に近い心地がした。
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