ギルベルトは孤児院から出て、村の大通りに居並ぶ人々の群衆の中に割り込んだ。
今日は山から贄嫁候補だった菊がこの村に下山してくる日だ。
指折り数えたこの日をギルベルトは心待ちにしていた。
ザワザワと騒ぎ出した群衆に、ギルベルトは目を配る。
すると、通りの向こうから行列が見えた。いずれも若い男達で、皆家具を背負っている。ギルベルトは菊の姿をその中から必死に探すが、見当たらない。
列が中間になると、あの頃よりも年老いた老婆の姿を見て、ギルベルトは緊張に手を握り締めた。
その老婆は菊の祖母であり、祖母は若い男に背負われていた。
一際群衆が騒ぎ出したのは、祖母の姿がギルベルトの前を通り過ぎた時だった。
白いブラウスに紺色のロングスカートを纏う黒髪の美女。
その姿に息を飲んだ。
「…菊?」
目を伏せて歩くのは、大きく美しく成長した菊だ。
菊はギルベルトに気付かず、そのまま列の流れに逆らう事なく歩き去って行った。
行列が歩き去ると同時に、村人達は感嘆の声を上げながら帰って行く。そんな中ギルベルトだけはその場から動けずにいた。

激しく鼓動する心臓、ドクドクと強く流れる血潮。一瞬にして火照った身体と真っ赤に染まった顔を自覚して、掌で顔を覆い隠した。

「…マジかよ」

それまで朧気だった想いを漸く確かなものにした。
ずっと気になっていた。忘れる事なんて出来なかった。村の女と菊をいつも比べてしまっていた。そして、大きく美しく成長した菊を誰にも渡したくない。自分だけのものにしたい。

初めて菊への恋と独占欲を実感したのだった。




村人によって家具を運び出され、普段着る事のない、ヒラヒラな服を渡されて入った村の中。
連なる家に広い畑。家畜が柵の中で呑気に餌を食べ、彩り豊かな髪と瞳の色を宿した村人が菊を見つめる。こんなに大勢の人を目にしたのは初めてで、その視線がこちらに向かっているのが恥ずかしい。ギルベルトの姿を探す事も叶わず、地面を見ながら歩みを進めた。

案内されたのは一件の家。今まで住んでいた木製の家とは違い、石で造られていた。中は割と広く、祖母と2人で暮らすには十分な広さだ。
村人が家具の配置を尋ねてきた為、菊はおっかなびっくりしながら、彼方此方と家具の配置をお願いする。皆頬を染めている事から菊の容姿に心奪われているのだが、菊はこんなに暑い中申し訳無いと恐縮していた。菊は割と鈍感だ。
村人達が挨拶を述べて立ち去ると、漸く菊は安堵の息を吐く。
祖母は血色良い顔色で新しいキッチンで早速ハーブティーを淹れている。
何だか元気になった祖母の背中にホッとして菊は微笑んだ。

祖母が抱えていた責からようやく解放され、村の中で菊と暮らせる。祖母の喜びは計り知れない。



翌日、菊は早速二羽の雌鶏に餌を与え、畑を耕す作業に入る。
鍬を振り上げ下ろす、腕と腰に力をグッと入れて柔らかい土を耕し、また鍬を振り上げて下ろした。この作業はいつもの日課と同じなのに、ふと見上げた太陽が、遠く感じる。標高差でこんなにも違うのだろうかと僅かに寂しく思いながらも、新生活に早く馴染む為身体を動かした。
種芋を埋め終わる頃には、辺りがすっかり明るくなり、道行く村人が和かに挨拶をしてくれる。拙いながらでも菊も挨拶を返す事が出来た。

正午になると祖母が作ってくれたジャガイモのスープと朝隣人が分けてくれたパンを食べる。
食器を洗い終えて、村の女達がお古だからと寄越してくれたワンピースを纏い、祖母に「行ってきます」と告げて村の散策に向かう。
ずっと頭から離れなかったギルベルトを探しに行く事にしたのだ。1人思い悩む事はやめて、同じ村にいるのならば、会いに行けば良いと思い切りの良い考えを導き出した。鈍感でもあるが、漢前な気質をも持っている。

ワンピースの裾を揺らし、村の中心部に位置する教会を訪れ、初めて目にする大きな建造物を感嘆の思いで見上げる。
そこへ「菊ちゃん!」と声がかけられて、振り向くと金髪の男と茶髪の男が笑みを浮かべて立っていた。
「…あの?」
菊は見知らぬ男に眉を寄せる。その様子に2人の顔は残念そうな表情になってしまう。
「あちゃー。覚えて無いか。俺だよ、美しいお兄さんのフランシス」
「メッチャ久々やんなぁ。親分の事も忘れたん?アントーニョやで?どや?思い出した?」
菊は忽ち目を見開くと、幼い頃にギルベルトと共に遊びに来ていた歳上の子供を思い出す。あの頃よりも大きく成長し、本当に誰か分からなかったのだ。フランシスはお姫様の様に愛らしかったのに、今では美しい顔立ちに顎髭を生やし、胸元がざっくり空いたシャツからは胸毛が見える。
アントーニョは幼い頃の笑みは同じだが、体躯はガッチリとなり身長も大きい。褐色の肌が男らしさに磨きをかけていた。
「あ…フランシスさんに、アントーニョさん!?わあ!お久しぶりですね!」
パァアと顔を明るくした菊に2人は安堵して笑みを浮かべた。



菊の祖母は玄関からのノック音に重い腰を上げて「はいはい」と呟きながら訪問者の応対に出る。
木製の重いドアを開ければ、其処には怖い表情を浮かべる男がおり、祖母は思わず「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。
そんな祖母の反応に男は目を丸くして「何だよ婆ちゃんかよ」と嘆息する。
「…その呼び方は…もしかしてギルちゃん…なのかい?」
「おう!久しぶりだな!婆ちゃん!」
強面の男は祖母も良く知る人物ギルベルトだった。あの頃は、わんぱく盛りの小僧だったのに、今では見違える程に大きく逞しくなり、顔の造形も鋭さを含み大人の男への成長途中を思わせる。だが、笑みを浮かべる顔はまだ子供特有の愛らしさがあった。
「婆ちゃん!その、き、きき菊は…?」
頬を染めて緊張気味に菊の名を告げるギルベルトに祖母はふふふと笑う。決してギルベルトを揶揄っているのでは無く、成長しても変わらない菊への想いが嬉しかったのだ。
「な、何だよ!婆ちゃん!笑うなよな!」
「ふふふ…!ごめんなさいね、ギルちゃん。嬉しくてね。ああ、そうだ菊なら今は出掛けてるよ?中に入って待つと良い。年寄りの話し相手になっておくれ」
菊の不在にギルベルトは落胆したが、菊を待つ事に決め祖母の提案を承諾する。

木製のテーブルにはハーブティーがあり、祖母とギルベルトは昔話に花を咲かせていた。
そして、ギルベルトは真剣な表情を浮かべて「婆ちゃん…、菊の事良かったな」と祖母の優しい眼差しを真っ直ぐ見つめて告げれば、祖母は目を丸くしたが、すぐに心底幸せそうな表情で「ええ。神に感謝しているよ」と微笑んだ。
「だからねギルちゃん…、菊の事頼んだよ?あの子の事ずっと好きだったのよねぇ?ギルちゃんは分かりやすいから」
祖母の言葉にギルベルトは盛大にハーブティーを吹き出した。
「ブファッ!?〜〜ッ婆ちゃん!知ってたのかよ!?俺様自身が昨日自覚したばっかだっつうのによ!!」
祖母はクスクスと口元を指先で隠して優しく笑う。
「ふふふ。年の功とでも言っておこうかねぇ…。あの頃ね、2人の仲を裂くことがどうしても出来なくてね。辛かったよ。でも漸く堂々と応援出来るんだから、頑張るんだよ?ひ孫の顔を早く見ないとあの世に逝っちまうよ」
「…、おう。頑張る!ってかよ、婆ちゃん何歳なんだよ?」
「おやまあ、レディーに歳は聞くもんじゃないよ?」
少し雰囲気が重くなった為ギルベルトは口を噤んだ。そして一つ勉強になったのだ。〈女性に歳を聞いてはいけない〉と。
「…あ、あのよ。将来を見越してなんだけど…、俺が18になったら、俺の弟と菊と婆ちゃんの4人で暮らさねえか?」
ギルベルトは意を決して祖母に4人での暮らしを提案した。
祖母は驚いた様に眉を上げたが、直ぐに申し訳無さそうに微笑む。
「とっても素敵なお話だけど、ごめんなさいね?年寄りは気ままに暮らしたいの。だから、来年はギルちゃんと弟さんと菊の3人で暮らすと良い。勿論菊がギルちゃんと暮らしたいって言ったらだけどね?」
「…そっか、残念だけど老後は婆ちゃんの自由だもんな!遊びに来てやっからな!」
「そりゃ嬉しいねぇ」
祖母がお茶のお代わりを作りに席を立とうとすればギルベルトがそれを制し、ティーポットを持ってキッチンに向かった。

新しいキッチンに物は少なく、綺麗に整頓されている。
シンクにハーブの乾燥した葉を見つけて、お湯を沸かしティーポットに注ぐとダイニングに戻った。
そこへ、玄関のドアが開く音と賑やかな声が届き、ギルベルトは目を見開いて言葉を失う。
可愛らしい女は菊。それは良いのだ。ずっと待ち望んでいたのだから。
だがしかし…!ギルベルトは手に持ったティーポットの取手を戦慄かせた。

「なんでテメェ等が先に菊に会ってんだよ!?ってか何しに来やがった!!」
ギルベルトが噛み付く勢いで怒鳴り散らせば、菊はギルベルトに気付き目を丸くし、背後にいたフランシスとアントーニョはニヨニヨと人の悪い顔を晒していた。
「あらあらぁ?ギルじゃなあい?ご機嫌ななめさんだこと」
「なんやギルちゃんお手伝いに来たん?偉いなぁ」
2人は心から楽しいと言わんばかりにギルベルトを揶揄う。
「うるせえよ!さっさと帰れ!」
ティーポットをテーブルに置き、悪友2人を睨むが、その視線上の僅か下から強烈な視線を受けてギルベルトは緊張に押し黙った。
その視線の先には美しく成長したギルベルトが恋する菊。
菊のオニキスの瞳を見返すと自分の心拍が跳ね上がった。
「あ、えーっと…、よ、よう。久しぶり、だな…?」

菊は漸く己と目を合わせてくれたギルベルトに居住まいを正す。
「あ、えっと…!お久しぶり、です」
忘れられているかと不安だったが、ギルベルトは久しぶりだと挨拶を述べてくれた事が嬉しい。心の底から良かったと安堵したのだが、なんと挨拶を返すべきなのか分からずに、鸚鵡返しの様に台詞を真似てしまう。
それも仕方無い。目の前のギルベルトはあの頃よりも大きくなり、身体つきも逞しく顔付きも男らしいのにどこか美しさをも含んでいた。緊張しない訳が無い。
「うっわ…何この空気。お兄さん痒くなって来た」
「偶然やなフラン。親分もや」
ギルベルトと菊の空間に悪友2人は白目をむく。
頬を赤らめて俯く姿は何処からどう見ても初心な恋人同士の様である。
そんな傍観者達の事を意識する余裕も無く何か話さなければと、パニックに陥った思考回路を必死に働かせた。
グルグル巡る思考で漸く、これだ!と思う物を思い付きギルベルトの目の前にグッと近寄る。
菊からの突然の接近にギルベルトは思わず仰け反りそうになる背を真っ直ぐにして、菊の行動に疑問符ばかり浮かんでしまう。
「そ、その!大きくなりましたね!…もうこんなに違います!」
菊は己の頭の上から手で線を引く様にギルベルトの肩にトンと手を当てた。
菊からの接触にギルベルトの顔は真っ赤になる。同時に菊が触れた肩から末端神経にかけてビリビリと電気が走った心地になる。ドクドクと心音が煩い。
「ッ!…そ、そうだろう!!俺様デカイだろ!ケセセ!菊は…えーと、チビっこいんだな!」
フランシスは額に手を当てて虚空を仰ぎ、アントーニョは腹を抱えて笑いだす。祖母は頬に手をやり、微笑ましいとばかりに見守っていた。
「…え、チビっこい?」
「そうそう!…ッじゃ無え!悪りぃ!えーと、ち、小せえ!」
ギルベルトの言葉に更に大人組3人は呆れたり、涙を流して笑ったり、笑みを深くしたりと三者三様だったが、菊はポカンとした表情からムッとした表情に変わる。
「…そんなに小さくありません。村の女性達よりはアレかもしれませんが…。〜ッ!貴方が大きくなってしまっただけです!」
ムッとした表情の菊に驚き、ギルベルトは蒼褪めて「え!?いや違う!小せえから悪いんじゃねえって!!」と弁明を始めた。
「チビって言われる方が嫌だろ?だから小せえっつったんだよ!…ん?いや、小せえも嫌か?と、兎に角だな!菊はそのサイズの方が可愛いんだよ!」
「…か、かわッ!?」
真っ赤な顔をしたギルベルトにつられて、菊の顔も真っ赤に染まる。


こうして7年の歳月が流れて漸く2人は再会した。
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