ギルベルトの村では、流行病が村人を苦しめていた。
その流行病はギルベルトの母を襲い、命を奪って行った。
夏の暑さが一際厳しい日、衰弱しきった母はベッド上でギルベルトに謝った。
「お前が、山に入ってる理由…、本当は知ってたよ…。ルッツが腹に居る頃にね、父さんがアンタの後を追いかけたんだ。そこで、女の子とギルベルトが仲良く遊んでてね…。直ぐ贄嫁候補だって分かった」
ヒューヒューと呼吸音を漏らす母の言葉にギルベルトは目を見開いた。
「…贄嫁候補だって分かっててもさ、行くなとは言えなかった。お前ら幸せそうに笑ってたんだから。村の掟なんてさ、本当はどうでも良い…、だからねギルベルト。アンタはアンタの思う事をやれば良い。誰がお前を咎めようとも…、アタシ達、夫婦が…空から見守ってる。護るからな。お前とルッツを…ちゃんと見てるから…、大丈夫…」
母の細く弱くなった指先がギルベルトの頬に伸びて、優しくなぞる。
いつも暖かい手は冷たくて、いつも力強くギルベルトに拳骨を落とす手は、弱々しかった。
その手を包んで、ギルベルトの瞳からは自然と涙が流れた。
「…お袋…、母さん。ッありがと…!」
母は優しく朝焼けの瞳を細めて、微笑んだ。
「ばーか。…泣くな。男の子だろ?…悪りぃな、眠い。ちょっとだけ寝る」
「…分かった。おやすみ」
「おやすみ…」
そう言って母はゆっくり瞼を閉じて、二度と目覚める事は無かった。

母を亡くしたギルベルトとルートヴィッヒは村の孤児院に引き取られる事となった。
ルートヴィッヒの世話の為、ギルベルトは山に入る事も出来なくなり、その日その日を必死に生きた。




菊は今日も二階の窓から藪道を眺めている。ギルベルトが来なくなって一月経っていた。
そんな菊の様子を祖母が悲しそうに見つめていた。

村で流行病が横行し、多くの村人が命を落としたと村からの手紙に書かれていた。
その被害は大きく、親を亡くした子供達は孤児院に引き取られ、村の墓地は墓標の数を増やした。
菊には村の様子を一度も伝えた事は無い。村に興味を示し、山を降りてしまう事を懸念した。そうなれば贄嫁候補の存在を知り、逃げ出すだろうと恐れたのだ。
しかし、祖母の心は揺れ動いていた。毎日毎日藪道を眺め、ギルベルトがいつ姿を見せるのかを待つ姿は痛々しい。
もし、その被害の中にギルベルトが居たら?孤児院に引き取られていたら?祖母の頭の中は罪悪感でいっぱいになる。
「お婆ちゃん…」
その時、窓の外を眺めていた菊が振り返る事なく祖母を呼ぶ。思わずびくりとしたが、勤めて平静に「なんだい?」と返した。
「もう、ギルベルト君は来ないんでしょうか?…ずっと、これから先も…」
「ッ!…菊」
菊の後ろ姿は悲しさと寂しさを感じさせる。
「…クッキー食べませんか?」
菊はテーブルに置いた籠の中のクッキーを指差し、小さく微笑んだ。その顔には諦めの表情が滲み出ていて、祖母の胸をさらに痛めた。
「…そうだね。美味しいハーブティー淹れようね」
滲んだ涙をバレないように指先で拭い去り、神に救いを求めた。

2人の背丈がどれだけ変わろうとも、どうかその思いだけは変わらないで欲しい。叶うならば、2人に幸福を…。

組んだ指先を解いて、祖母はまた一筋の涙を流した。






畑を鍬で耕す男達が居る。
その中でも一際目立つ男。白銀の髪色に逞しく発達した胸筋と腕を晒すのは、ギルベルトだ。
孤児院に引き取られて7年もの月日が経ち、17歳となっていた。弟のルートヴィッヒは9歳となり、しっかり者へと成長した。
孤児院では18歳になると卒院となり、村で一人暮らしを始める様になる。
来年からギルベルトも村で一人暮らしとなる。
鍬を持って、ベンチで休憩すれば、孤児院の子供達が冷たい水を持って来てくれる。その子供達の中には輝く金髪のルートヴィッヒも居た。
ルートヴィッヒは真っ直ぐギルベルトに駆け寄ると、手に持っていたグラスを差し出した。
「兄さん、ご苦労様」
「ありがとな!ルッツ!」
冷たい水を喉に流し込めば、火照っていた身体が冷めていく。
ルートヴィッヒはギルベルトの隣に腰掛けると、青空に広がる白い雲を見上げた。
「兄さんは、最近元気が無い。と思う」
ルートヴィッヒの言葉にギルベルトはグラスを傍に置き苦笑した。
「何だよ突然。どうした?」
小さな頭を撫でれば、ルートヴィッヒは「子供じゃないからやめてくれ」とギルベルトの手を払う。
「兄さん、悩み事があるのか?」
碧色の瞳が真っ直ぐギルベルトに向く。
「!…んー、そうだな。悩みといえば芋の皮剥きを如何に効率よくするか?だな!」
ルートヴィッヒは目を丸くすると、呆れた様に溜息をついた。
「なんだ…、そんな事か。マットが言っていたぞ。兄さんはくだらない事を真剣に考えるのが好きだってな」
マットとは孤児院に居るルートヴィッヒよりも2つ歳上の少年である。
ギルベルトは引き攣る頬を必死に抑え込んで後でマットと話す必要があると思った。
「くだらなく無えだろ?芋は主食なんだからよー。ったく。俺様はいつも真面目で完璧だっつうの!」
「…そうか。兄さん、あまり人に迷惑をかけるなよ?それじゃもう行く」
ルートヴィッヒは席を立つと、歳下らしからぬ言葉をギルベルトに投げて、さっさと歩き出してしまった。
ギルベルトはその小さな背を見送り、高く聳える山を眺めた。

17歳。
とうとう今年、贄嫁の儀式が執り行われる。
その通達が今日の午後出されるのだ。
緊張しない訳が無い。
菊じゃなければ良い。贄嫁に選ばないでくれ。とギルベルトの心は切なさで苦しい。



その日の午後、孤児院にも知らせが届いた。
掲示板に貼られた羊皮紙には、今年の贄嫁の儀式の事柄が詳しく書かれていた。
ギルベルトは周りの者達を押し退けて、必死に文字を辿った。

贄嫁 クリス
開催日 ◯月の満月の夜。
参列する者は17歳以上の男衆。

ギルベルトは思わずその場に膝をついた。
菊じゃなかった…!歓喜で胸が震える。
座り込んだギルベルトを心配する者達に大丈夫だと告げて、自室に駆け込んだ。
引き出しに片付けていた父の形見であるロザリオを握りしめて額に押し当てた。
「親父ッお袋…神よ…ッ!ありがとう!…ありがとう…!」
菊が村で暮らせる。また一緒に過ごす事ができる。ギルベルトの胸は歓喜でいっぱいになった。
そしてギルベルトは瞳に力強い光を宿した。
菊が村に降りてきたら、一緒に暮らそう。孤児院からルートヴィッヒを引き取って、菊と婆ちゃんとルッツの4人で暮らしたい。そんな夢の様な事が実現する予感にギルベルトの胸は多幸感で満ちた。




黒く艶やかな長い髪を頭上で結わえ上げ、切り株の上に座り山菜の選り分けをしている女が居る。
白のブラウスにベージュの半ズボンと山の中を散策する出で立ちは、所々土汚れが付いており、散策を終えて来たのだと分かる。
女は大きく伸びをして、山菜の入った籠を背中に背負い、こじんまりとした家屋に入って行く。
籠をキッチンに置き、揺り椅子に深く座る老婆に「ただいま」と声を掛けた。
黒髪の若い女は菊だ。17歳となり、少女から女へと変貌する途中だが、誰が見ても美しいとされる容姿を持っていた。
山の中を歩く体は引き締まっている。
老婆は菊の祖母であり、最近では足腰が弱くなり、畑仕事が出来なくなった。
今では、祖母の代わりに菊が畑を耕し、山菜取りに出かけている。祖母は長時間立っている事は出来ないが、体調の良い時は料理を作る。
「菊、おかえり」
祖母は更に寄った皺を弛ませて菊を見上げた。
「お婆ちゃん、今日は山菜が沢山取れましたよ!まだ日が高いですし、後で魚釣りにも行ってきますね!」
ニコニコと報告する菊に祖母もうんうんと嬉しそうに頷いた。

菊は早速蒸したジャガイモを1つ手に持ち、魚釣りの為家を出た。
谷の側は涼しくて気持ち良い。
早速釣り糸を垂らすと水面を見つめた。
この場所で釣りをする度に思い出すのは、ギルベルトの事だ。
あれから胸の奥底に篭った熱は未だに燻り続けている。
もう7年もの月日が経つのに。と菊は眉を下げた。
もう一度逢いたいと願っても、この7年逢えなかった。きっとギルベルトは忘れてしまったのだろう。と思い、この感情に終止符を打とうとしたが、ギルベルトと過ごした谷も家も山の中も、ギルベルトの存在がこびり付いて菊の胸を締めた。
ピクピクと竿が振動する。菊はハッとした様に思考を戻すと、竿の先端を注視した。
グイッと一際竿が曲がった瞬間、菊は思いっきり竿を上げた。
ビクビクと竿の振動と共に、糸の先端には立派な魚が食らいついて暴れていた。
「おっきい…。お婆ちゃんに食べてもらいましょう!」
体力の落ちた祖母の為、菊は山菜を採り、魚を釣り、畑を耕し、料理をして、祖母の就寝後に掃除をしていた。毎日が大変だったが、たった1人の家族の為と思えば、何の苦にもならなかった。
その後魚を3匹程釣り、家に向けて足早に帰宅した。

家に辿り着くと2人の男が家の中から出て来る所で、菊は思わず木の影に身を隠して様子を窺った。
男2人は手に紙の束を持ち、祖母に1枚渡すと山を降りて行った。
菊は木の影から飛び出して、祖母に駆け寄る。
するとどうだろう。祖母の顔は久々に見る…いや初めて見る笑顔で、歓喜に満ちている。
祖母は菊の姿を見つけると、ギュッと抱きしめてくる。
「?お婆ちゃん、どうしたんですか?」
「ぁあ!菊!良かった!良かったね!神様感謝します!」
菊の声が届かない程興奮している祖母に驚いたが、祖母の感情が落ち着くまで菊は抱き締められた。

その後、漸く落ち着きを見せた祖母から、喜びの訳を聞かされ、菊は驚きに目を見開いた。そして同時に悲しみに暮れた。
贄嫁の存在は衝撃だったのだ。
その候補として山に軟禁されていた事。そして、菊が選ばれなかった代わりにクリスという少女が贄嫁となってしまった事。
素直に喜べない菊の様子に祖母は明るい表情を引っ込めて眉を下げた。
「…ごめんなさいね。今まで黙っていて」
「そんな…お婆ちゃんが謝る事無いです」
祖母の所為では無い。そして祖母が喜ぶのも悪い事では無い。菊のこれからの生を願ってくれていたのだから。
ただ、どうしてもクリスという少女の事が気にかかった。自分が選ばれていれば、クリスは村に降りて幸せに暮らせたのかもしれないと思えば、遣り切れなかった。
1週間後村に降りる手筈となっており、村から一件の家と鶏を2匹と小さいが畑を与えられる事が決まっていた。

山での暮らしに不自由した事は無く、寧ろ気に入っていた。村には行った事が無い為不安しかない。
そこにギルベルトが居るのだと思えば、不安は増した。忘れられているだろうか?元気に暮らしているだろうか?と様々な感情が押し寄せてくる。

菊は嬉しそうに村での暮らしを話す祖母に、悲しげに笑った。




それから3日後の満月の夜。
白いドレスの様な衣装を身に纏う1人の少女が贄嫁として山奥の神の元に嫁いだ。
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