空高く昇る太陽の位置を見て、菊は小さく嘆息した。
昨日はギルベルトが来なかった。だけど今日は来るかもしれないとクッキーを焼いて二階の窓から外を見ていたのだが、いつも来る時間になっても、藪道の向こうから人影はやって来ない。
『…今日も来てくれないんでしょうか?』
はぁ…。と再度大きな溜息を吐いていれば、ガサガサと藪の向こうの茂みが揺れ動いた。
菊はパッ表情を明るくして藪道の向こうに目を凝らす。
茂みの向こうから現れたのは、ギルベルトよりも大きな体躯の男だった。
見慣れぬ者の登場に菊は目を丸くして、男の行方を眺める。その腰ベルトには鎌や鉈がぶら下がっており菊は警戒する。
男は真っ直ぐこちらにやって来て、いつの間にか外に居た祖母が応対していた。
男は申し訳無さそうに眉を寄せているが、後ろ姿の祖母の表情は分からない。だが、顔を覆う仕草を見せた事から何か嫌な事があったのだと菊は察した。
祖母の肩に大きな掌をポンと置いて、男は足早に去って行った。
しばらく祖母はその場から動き出す様子が無く、菊は不安を覚え祖母の元に急いで向かった。
外に飛び出して、俯いた祖母の小さな背中に「…お婆ちゃん?」と声をかければ、祖母は弾かれた様に顔を上げて振り返った。その翡翠の瞳は涙で潤み、白い肌は赤みを帯びている。一目で泣いたのだと分かり、菊は眉を寄せた。
「意地悪されたんですか?さっきの人に…」
祖母はまた瞳に涙を溜め、菊を抱き締めた。
「〜ッ、菊…!ぅう…」
細い祖母の背中に手を回し、オロオロと狼狽えた。こんなに涙する祖母の姿は初めてだ。
「お婆ちゃん?大丈夫ですよ?私が守ります!」
その言葉に祖母は更に泣き出した為、逆効果だと察した菊は口を噤む事にして祖母の背中を撫でた。
どうか、泣き止んで、あの優しい微笑みを見せて欲しいと必死に骨張った背中や肩を温めた。
その後、何があったのかをいくら尋ねても祖母は口を固く噤み、何も教えてはくれなかった。




ギルベルトが菊の元を訪れたのは、実に1週間ぶりの事だった。
今までほぼ毎日訪れていただけに、1週間ぶりに会う相手に対して、お互い僅かに緊張していた。

綺麗な谷から流れ出る清流を眺めながら、ギルベルトと菊は大きな岩に腰掛けて魚釣りをしていた。
カゴには魚が3匹程入っている。
太陽が清らかな水面に反射して眩しい。初夏にあたる季節は過ごし易く、薄手の服装は軽い。
「…なあ、菊は何が好きだ?」
突然出された質問に菊はキョトンと隣のギルベルトを見遣り、好きなもの?と思考する。
「んー、そうですね…括りがないのであれば、全てですね」
菊は釣竿を上げて針に模擬餌が無いと確認すると、手を伸ばして雑草を引き抜き擬似餌を作り始めた。
ギルベルトは菊の回答にキョトンとした後、眉を顰めた。
「ンだよ?全てってのは何処から何処までだ?」
ギルベルトはブルブルと振動を伝える釣竿の先を見つめながら菊に問う。
釣竿の先がグイッと曲がった瞬間、ギルベルトが竿を引き上げれば、魚が擬似餌に食らいついていた。
「あ!今度のはさっきのより大きいですね!ギルベルト君凄いです!」
ギルベルトが釣り上げた魚に菊は目を輝かせるが、物言いだげな表情を晒したギルベルトに気付き、コホンと咳払いをして居住まいを正した。
「…全ては言葉の通り全てです。お婆ちゃんもギルベルト君もフランシスさんもアントーニョさんも、それにこの山と空、渓谷に綺麗な清流、山に生きる動物も植物も。後はお婆ちゃんの作る料理に、みんなの笑顔です!」
何の戸惑いもなく、大きな瞳をキラキラと輝かせて喋る菊は本当に嬉しそうだ。
好きな物を思い浮かべる時の菊はいつだって輝いている。
「…そ、うか。いっぱいだな」
「好きな物が沢山あるのは幸せな事ですね。ギルベルト君の好きな物は何ですか?」
新しく作った擬似餌をギルベルトに渡して、また新しい擬似餌を作り始めた菊の質問にギルベルトは針に擬似餌を付けて、川面に投げ込んだ。
「俺様は…、そうだな。先ずは家族!お袋とルッツだろ?後は、小鳥さんに、ジャガイモとブルスト、魚釣り、山の探索、騎士伝説、菊の作ったクッキー。それに菊の婆ちゃんだな!」
ギルベルトの答えに菊は不満気に眉を顰めた。
「…そうですか。私が入って無いのが残念です」
「ケセセ!バーカ。お前は、菊は特別なんだよ。その他と同じ好きじゃ無えんだ。好きよりも上だからな」
歯を見せて笑うギルベルトの横顔を驚いた様に見つめていた菊は忽ち真っ赤に染まった。
《菊は特別》《好きよりも上》
この言葉に菊の心臓が熱を持った。ギルベルトの特別になれた事が嬉しくて、恥ずかしくて堪らない。
ギルベルトは決して菊の方を向かなかったが、その耳は真っ赤に染まっていた。

吹き抜ける風が山の木々の匂いを運び、2人の熱を持った頬を冷やした。



その後、ギルベルトが菊の元を訪れる回数は減って行く。
2週間、1ヶ月…と期間は伸びていき、とうとう季節は夏の終わりを迎えた。
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