山間の小さな村では10年に一度、16〜18を迎えた処女である1人の乙女が山神の花嫁(人柱)として奉納される。
山神は古くから伝わる神格であり、その姿は牛よりも大きな狼だと伝えられていた。
その昔、狼は縄張りに侵入した人間を殺していたが、勇敢な村娘と共存の約束を交わし、それからは山に人間が立ち入る事を許可した。
人間は決して狼の住処を荒らさない事が絶対条件であったが、数百年経つと人間の短い生涯では世代も変わる。そんな大昔の約束を忘れて山をどんどん開拓し、山の更に奥地を目指してしまった。狼の逆鱗に触れた村では疫病が流行り、不作が続いた。
事態を重く見た当時の村長が村娘を人柱として奉納したのだ。
するとどうだろう。
村娘が奉納されてから暫く、発病は終息を見せ、金の稲穂や作物が実り出した。村人達は山神の怒りが鎮まったのだと胸を撫で下ろし、人柱となった乙女に静かに黙祷を捧げた。
それからというもの、村に新たな掟が生まれた。

〈10年に一度人柱として処女である乙女を山神に奉納する事〉


松明の火が連なり列をなす。
その行列の中央には、白い花嫁衣裳を纏う少女が居た。
綺麗な衣裳にも関わらず、少女の顔は涙に濡れている。
この少女は今夜、神の元へと嫁入りを果たすのだ。

「お婆ちゃん、あのお姉ちゃんは何処に行くんですか?帰ってきますか?」

年の頃6歳の子供と手を繋ぐ老婆は、曲がった背中を更に屈めて眉を下げた。

「…いいえ。もう帰っては来ないよ。神様の元へとお嫁に行くんだよ」

老婆は幼子の黒髪を撫でて苦笑した。

「…神さま?」
「そうだよ。山の神様の元へと嫁入りするんだよ」

幼子はその黒い瞳に列をなす松明の火を写し、悲しみに暮れる花嫁の後ろ姿を老婆の他に誰も居ない木の影から無垢な表情でひっそりと見送った。




大きく連なる山間に小さな集落があった。
古き伝統を守る民族が山を少しずつ開拓し睦まじく暮らしている。
その集落から離れた山奥に一軒の小さな家があった。
その家には老婆と今年10歳となる少女が2人で暮らしていた。
この地域一帯に他の民家は無い。

まるで隔離されたかの様な異様な場所であった。


そんな民家の前に1人の少年が息を切らせて立っている。
「お、おーい菊!俺様が遊んでやるぜー!出て来いよー!」
家の前で腰に手を当てて息を弾ませるも、しっかり胸を張る少年が居た。
その少年の呼びかけに応えて少女が民家の2階の窓から顔を覗かせる。
「ギルベルト君…。来たんですね…」
ギルベルトと呼ばれた少年は白に近い銀髪に赤と青の混ざる瞳を持つ美しい少年だった。その少年の白い肌にはあちこちに赤い筋や切り傷が目立つ。
藪の中を走って、小枝で切ってしまったようだ。
菊と呼ばれた少女は艶やかな黒髪に大きな黒の瞳という可愛らしい見目をしている。
その大きな瞳を細めて、ギルベルトを呆れた様に見下ろした。
「…暇なんですか?また傷だらけじゃないですか」
「ひ、暇な訳無えだろうが!?俺様は忙しい合間を縫って来てやってんだぞ!光栄に思え!そんで菓子を用意しろ!」
「威張って言う事じゃ有りませんよ」
「…煩え」
唇を尖らせて、バツが悪いとばかりにそっぽを向いたギルベルトに気づかれない様、菊はこっそり笑んだ。
今日はもう来ないのだと諦めていただけに、その喜びは大きい。

ギルベルトは慣れた様に民家に立ち入ると、ダイニングにある椅子に座る。
菊は救急箱を手にギルベルトの前に椅子を引いて座った。
「なあ婆ちゃんは?畑か?」
ギルベルトはいつもニコニコとリビングの揺り椅子で編み物をしている老婆の行方を尋ねた。
「はい。裏の畑に行ってますよ。ジャガイモ掘りだそうです」
菊は救急箱から消毒液と脱脂綿を取り出して、ギルベルトの膝や頬、腕を手当てしていく。
「痛え!?もっと優しくしろよ!」
「じゃあ怪我しないで下さいよ。消毒液が沁みるのは仕方ないです」
グッと言葉に詰まるギルベルトに小さく嘆息して、今度は絆創膏を貼りつける。
「だってよ、こっそり藪道通らねえと此処まで来れねえんだもんよ」
「…また黙って来たんですね。怒られても知りませんから」
「言うなよ!」
「ふふ。誰に言うんですか?」
ギルベルトは安堵の息を吐いて、菊を見遣る。
「ケセセ!俺が来れなくなったら寂しいもんな!」
「そうですねー」
「…おい、心が籠ってねえぞ」
「あら、分かりました?」
「てめぇ…」
菊が小さくクスッと噴き出せば、ケセセセ、クスクスと笑い声が小さな家屋に響いた。


おやつにと作ったクッキーと蜂蜜湯をテーブルに並べて、2人きりのお茶会を始める。
「今日はフランシスさんとアントーニョさんはご一緒では無いんですね」
いつもならば、ギルベルトとフランシス、アントーニョの3人がこの家を訪ねて来るのだが、ここ数ヶ月はギルベルト1人だけで訪れている。
菊にとって数少ない友人が訪ねて来なくなり、少し寂しさを感じていた。
「あー、彼奴らはアレだアレ!家の手伝いとかで来れねえってよ!」
「…そうですか」
伏し目がちに嘆息する菊にギルベルトは頬を膨らませた。
「ンだよ?俺様が居んだから良いだろ?不満かよ?」
「まさか。ギルベルト君みたいに元気な方が訪ねて来てくれて嬉しいです」
「ケセセ!そうだろー!」
ギルベルトは満足気に笑むとクッキーに手を伸ばす。
菊は蜂蜜湯の入ったマグカップを両手で包み、静かに口に含んだ。
「そういえば、ギルベルト君の弟さんはお元気ですか?」
ふと思い付いた様に菊が口にすれば、ギルベルトは口角をニンマリ緩める。
「おう!すげぇ元気だぜ!もう喋れるようになったしよ!そのうち俺様の事を小鳥カッコイイお兄様って呼ぶ様になるぜ!楽しみだろ!」
「それは…」と菊は苦笑した。
ギルベルトの弟は今年2歳になる。まだ会った事は無いが、ギルベルトの話を聞く限り、金髪碧眼の天使だそうだ。きっと可愛らしいのだろう。と予想している。
ギルベルトと他愛のない話に華を咲かせていれば、ギイィと木製の扉が音を立てて開いた。その向こうには手に下げたカゴいっぱいにジャガイモを入れた老婆が居る。
この老婆は菊の育ての親でもある祖母で、白髪の長い髪を結わえ上げている小柄なお婆ちゃんだ。
「おや、ギルちゃん。いらっしゃい」
「よう!婆ちゃん!今日も元気そうだな!」
祖母は皺の寄った目尻を更に弛ませて微笑んだ。
「お婆ちゃん、ご苦労様でした。いまお茶淹れますね」
「あら、悪いわねぇ。ありがとう」
菊は祖母の手からカゴを受け取ると、キッチンに向かった。
その背を見送り、ギルベルトは祖母を見上げて深刻な表情になる。
「婆ちゃん、今日…、贄嫁の候補の1人が菊だって聞いた。…本当なのか?」
古くから生贄として処女の娘を捧げる風習があり、人々から〈贄嫁〉と呼ばれていた。
贄嫁候補となった女の子は山から外に出る事も、男子との接触も厳しく禁止される。歳の頃が5歳になれば、贄嫁候補として18までの13年間を山に篭り大切に育てられるが、一種の軟禁状態であった。
今年10を迎えた少女は菊の他に1人だけ。その少女も村外れの山間の中でひっそり暮らしている。
少女達のうち、1人が贄嫁として山の神に奉納される。
この少女達が何故贄嫁候補として選ばれたのか、その理由は強い後ろ盾も、両親も居ない孤児であったからだ。
皆、我が子が大切で可愛い。何としても守りたかった思いの矛先が、孤児である少女達に向かった。村周辺に捨て子があれば村の孤児院に連れ帰り、男の子であれば成人後、村の発展の為に働いてもらい、女の子であれば贄嫁候補として、村の女が引き取り子育てをする。
その為、菊の祖母とは血が繋がっていないのだ。
孤児院から菊の世話を託されただけに過ぎないのだが、老婆は本当の孫として菊を愛した。其処には本当の母子の様な絆が生まれていた。
正式な贄嫁を決めるのは、村長が代々受け継いで来た占術を持って下される。
今日そんな話を村人がしていたのを偶々聞いてしまったギルベルトは慌てて菊の元へとやって来た背景があったのだ。

祖母は悲し気に眉を下げて、翡翠の瞳を揺らした。
「…そうよ。悲しい事だね…。でも、まだ菊が贄嫁と決まった訳じゃないのよ?選ばれない望みがあるの。私はね、それを神様に毎日願っているの」
土で汚れた白いエプロンを外して、力無く祖母は微笑んだ。
「お、俺も…!俺も神様にお願いする!菊を選ばないでって!一生懸命お願いする!」
祖母は驚いた様に目を丸くして、優しく微笑んだ。
「そうかい…、ありがとうね」
「ケセセ!神様もきっと聞いてくれるぜ!」
菊が選ばれなければ、他の誰かが贄嫁となる。それでも祖母もギルベルトも菊を喪いたく無かった。

「何だか楽しそうですね?」
キッチンに行っていた菊が、祖母の分のハーブティーを手にリビングに戻ってきた。
「ッ!な、何でも無えよ!気にすんな!」
「…ふーん」
何だか面白く無いと菊は目を眇めてギルベルトを見るが「菊、ありがとね」と祖母の声に遮られて、手にしていたハーブティーを手渡した。
祖母はダイニングの椅子に座ると、ギルベルトと菊に手招きをして座る様に促す。
「さあ、ジャガイモのスープとジャガイモのキッシュでも作ろうかね?ギルちゃんも食べて行くかい?」
夕食の誘いに「うん!」と答えそうになるのを耐えて、ギルベルトは「今日は帰る」と言った。
菊は目を丸くしてギルベルトを見るも、祖母は少し残念そうに眉を下げて「そうかい」と答えた。
「悪りぃな!また今度な!」
ギルベルトは隣に座る菊の黒髪を優しく撫でた。
「そう…ですね。また今度です」
残念そうに微笑んだ菊にギルベルトは眉を下げて苦笑した。

贄嫁候補の菊にギルベルトやアントーニョ、フランシスの3人が会いに来るのは禁則事項だ。
贄嫁は18歳の処女でなければならず、もし恋に落ちて処女喪失ともなれば贄嫁になる事が出来ない。
ギルベルトが毎日の様に菊の元にやって来る時は、村人にバレない様に目を盗んでやって来ている。いつ何時バレるのか分からない。もしバレたりでもしたら、ギルベルトは菊が贄嫁となる歳まで牢屋暮らしとなってしまい、ギルベルトの家族は村人達から違反者の家族だと揶揄され、冷遇されてしまう。
そして15になれば、子供達は大人と同等の仕事を任される様になり、おいそれと菊に会う事は不可能だ。
この家に来るまでの藪道は、大きな体躯では通る事が困難な程木々が道を塞いでいる。
まだ小さな子供だからこそ、ギルベルトは通り抜けられていたのだが、最近では木々の枝が服や肌に傷を作り昔程簡単にすり抜ける事が難しくなっていた。
アントーニョとフランシスはギルベルトよりも2つ歳上で、体躯もギルベルトより一回り大きい。この藪道をアントーニョもフランシスも通る事が出来なくなってしまった為、菊に会いに来れなくなってしまったのだ。
成長につれて、ギルベルトもあと何回この藪道を通って来られるのか分からない。木々を伐採すれば簡単なのだが、伐採の跡を村人に見られてしまうのは頂けないのだ。

今日は突発的に菊の元に来てしまった為、長居が出来ない。名残惜しく思いながらギルベルトは帰り支度を始める。

「じゃあな菊!また来るぜ!」
「はい。今度はゆっくりして行ってくださいね?」
「おう!」
ギルベルトはいつもの様に菊の額に口付けて微笑む。
別れの挨拶を終え、玄関の前に立ったギルベルトは祖母から渡された黒いローブを羽織り、木々の生い茂る藪道へと姿を消した。
菊は暗くなり始めた夕焼け空を見上げてから、家の中に入った。


ギルベルトが村に戻る頃にはすっかり薄暗くなっており、家々の窓からは灯りが灯っていた。
石造りの二階建てがギルベルトの家だ。菊の家に比べて頑丈な造りである。
玄関の扉を開けばギルベルトの母が仁王立ちでギルベルトを出迎えた。
「コラ!ギルベルト!何処ほっつき歩いてたんだ!」
ギルベルトと同じ白銀の長い髪に朝焼けの瞳を持つ女性がギルベルトの母だ。
ギルベルトの父が病で亡くなってから、女手一つでギルベルトとルートヴィッヒを育てている肝っ玉母ちゃんである。
「うげ…。別にどこでも良いだろ?」
「良く無い!いい加減友達の1人くらい作れよ?お前いっつも1人で山に入ってるそうだな?」
「と、友達ぐらい居るっての!フランだってトーニョだって…多分友達だし?山には…その、秘密基地があって…内緒だ」
まさか山奥に住む菊の元に通っているなんて言えない。贄嫁候補と知った今、例え家族にも口外出来ない。知る前ならきっと菊の事を話していただろうと思い、嫌な汗が流れた。
「秘密基地?ったく…、山ン中は気ぃつけな。熊が出たらどうすんだ」
この山間には熊が生息しているが、この村には降りて来た事がない。
山の中には木ノ実が沢山実り、清らかな谷には魚が居るのだ。人間を襲う可能性は低い。
「大丈夫だっての」
「はぁ…。絶対分かって無えな。取り敢えず、明日はちゃんとルッツの子守り頼んだよ!村の寄り合いに呼ばれてんだ」
「寄り合い?何の話があるんだ?」
「さあね!そんな事より、さっさと手と顔洗って着替えな!傷だらけで汚れてるじゃねえか…。夕食にするよ」
「…おう」
踵を返した母に、ギルベルトは眉を寄せた。村の寄り合いは、つい3日前にあった筈だ。頻繁に行われるなんて珍しい事だった。
何かあったのだろうか?と頭を傾げ、母に言われた通り身形を綺麗にする為、足を動かした。



翌日、ギルベルトは朝から母の言いつけ通りに弟であるルートヴィッヒの子守をしていた。
家の外には普段散歩している老人や物売りの商人、畑を耕す農夫まで見当たらない。皆村の寄り合いに参加していて、残っているのは子供達か病人ぐらいだ。
寄り合いの時の静まり返った村は何だか気味が悪くて、ギルベルトは苦手だった。
2歳となった弟は大きな蒼い瞳をキラキラとさせて、積み木のオモチャで遊んでいる。その様子を見守りながら、ギルベルトは窓の向こうに高く聳える山に想いを馳せた。
今日は母が戻ったら菊の所に行こうと思っていたのに、気付けば時刻は正午を過ぎている。なのに未だに母が戻らないどころか、村人の姿だって見当たらない。今日は随分と長引いているのだな。と嘆息する。2時を過ぎてしまえば、山に入る事も出来ない。昨日はまだ正午の時間帯で行ったが、ゆっくりする事も出来なかった。今日は菊の所に行ったとしても、少しの時間しか会えないだろうと山に入る事を諦めた。

寄り合いが終わって母が帰宅したのは、2時半。凡そ5時間にも及ぶ寄り合いから戻った母の顔はドッと疲れを滲ませていた。
「今日は随分と遅かったんだな」
ギルベルトの作った昼食を軽く摘みながら、母は眉を下げた。
「ほんと疲れた!年寄り共の頭の硬さはダイヤモンド級だぜ」
まったく!と盛大にため息を吐いた母にギルベルトは「ふうん…」と相槌をうつ。
「何の話し合いだったんだ?」
ギルベルトの質問に母は一瞬だけ視線を宙に彷徨わせたが、何事か1人納得すると話し出した。
「贄嫁って知ってるだろ?」
贄嫁という単語にギルベルトはギクリとした。
「その贄嫁の儀式なんだけど、時期を早めるだとか村長が言い出してな…。神のお告げがあったとか馬鹿な話だよ」
ギルベルトの思考は一瞬止まりそうになった。贄嫁の儀式を早めるなんて、菊との時間を削られるのと同義である。
喉の奥が引き攣りそうになるのを必死に耐える。
「は、早めるって?いつ…?」
「贄嫁候補の歳が16になったらとか言ってたけどな。でもそれじゃ可哀想だろ?だからアタシは反対したんだ。せめて18になるまで待ってやれってな…それでも、可哀想な事には変わりないけど。1日でも長く側に居たい人も居るんだ…。それで、村の過半数が18までだったんだけど、村長も頑固なジジイでさ。結局17までって事になったよ…。言っちゃ悪いが、もうやめちまえば良いんだよ。こんな事は…」
「!?」
ギルベルトは今になって、菊が贄嫁候補である事が恐ろしくなった。
菊が贄嫁となれば、その命は17で終わる。そうなれば、あの声と優しい微笑みが、存在が消える。…もう逢えないのだ。
贄嫁とならなければ、村に移り住み自由に暮らせる様になる。
菊の祖母が毎日神に祈っている事の重大さを実感した。軽々しく便乗した自分が恥ずかしく思った。
そして今度こそ真剣に、熱心に神に祈ろうと誓ったのだ。
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