「うおぉ、さみぃいい!」
ゴオオッと吹き付ける潮風が短い銀髪を掻き撫でた。
白磁の肌には寒さから赤みが刺し、朝焼け色の瞳は潤んでいる。
長身のギルベルトはこの寒さでも猫背になる事も無く、背筋がピンと伸びていた。
海鳴りの中でまだ寒いと言いながらでも、嬉しそうに笑みさえ浮かべている。
「そりゃ、まだ1月のしかも早朝ですもの!いくら貴方のお国と温度差があろうとも、まだまだ暖かくはなりませんよ!あ〜寒いぃぃ!!」
顔の半分をマフラーに埋め込み、琥珀色の瞳を眇めている菊の背筋は猫の様に曲がり、少しでも暖を逃すまいと必死である。菊の口調には若干の皮肉が込められている。この場合八つ当たりに近いだろうか。
あの時、何でこんな事を快諾してしまったのかと菊は絶賛後悔中である。
対象的な2人の佇まいを上空のウミネコが嘲笑う様に一声鳴き、灯台の向こうへと飛び去って行く。

何故2人がこの寒さの中、海にいるのか…、それはギルベルトの発言から始まった。



正月の三賀日にギルベルトの誕生日にと、大きなイベントをやっと終えた1月後半。
菊はカレンダーをチラリと見上げ、手元の湯呑みを両手で包み込んだ。
今日は1月23日。
ソワソワとした心地は何年経とうとも落ち着かない。まるで子供がクリスマスを楽しみにしている心地に似ているだろうか。
菊の楽しみ…それはギルベルトと菊にとって大切なイベントである。

明日に迫った1月24日はギルベルトの真摯なプロポーズに菊が粛々と頷いた日。国同士で結ばれる事は無いが、個人名ならば何の障害も無いと考えたのだ。
過去には国民感情や世論に押され、傷付きもした。だが、真の根の部分ではお互いを想い合い、心は寄り添い続けた。
切っても切れない絆で結ばれた2人の結婚記念日が既に明日と迫っている。
毎年ギルベルトは自分の誕生日を自国で祝い、次の日には日本に訪れ、こうしてのんびり24日の記念日を2人で過ごすのだ。
美味しいご飯を食べ歩き、雪見風呂に入って酒を飲む。ここ数年同じ事の繰り返しで最早恒例化してしまっている。
そろそろ何か他の案は無いかと菊は旅行誌を買い漁り、ネット評判をクリックする日々。
しかし、これと言ってピンとくるものが無かった。
菊はギルベルトの誕生日を祝いながらも、迫り来る記念日にどこか焦りを覚えていた。
ギルベルトは毎年同じ事の繰り返しで飽きていないだろうか?無理に付き合わせたりしてないだろうか?
何を提案してもギルベルトは菊の意見を尊重してくれる優しい伴侶だ。
その優しさに胡座をかいていては駄目だと、ごく最近思い至ったのは、テレビ番組を見ていた時の事。ワイドショーに出て来る不倫夫や不倫妻が語る内容は今の自分達に若干当て嵌まる。
これはマズイと重い腰を上げてサプライズを検討したのだが、花束もメッセージカードも…どれもこれもピンとこない。
ギルベルトに幸せを与えたいと思うのに、何も思い浮かばない自分の思考能力の低さを呪った。
『何か…ヒントになる事は…』
ウンウン唸りながら手元の湯呑みをニギニギしてみるが、ヒントのヒの字も浮かばない。
『…プレゼントで浮かばないなら夜伽の際の嗜好など…例えばケモ耳、コスプレ、SM…』
悶々と今度はピンク色の世界へと思考を飛ばすも、こんな爺さんがケモ耳にコスプレ?失笑もんです!とゲンナリとなり、SMなんて相手がその筋のプロみたいなもの…きっと良い刺激にはなるが、こちらの体力が持たないし、新しい扉は開きたくもない。等と考え至る。
『…ハッ!!いっその事、媚薬とかどうです!?』
コレは閃いた!と顔をガバッと上げれば、キラキラ光る眩しい色に目が止まる。
コタツに下半身を収め、腹這いになってスマホを弄るギルベルトは俺様ブログの更新中なのであろう。此方の様子など気にも留めず、黙々と画面をタップしたりスライドしたりしていた。
ギルベルトの腰の上には愛猫のタマが丸くなって寝ている。
菊の正座した膝の上にはポチが眠り、その白いモフモフの背では小鳥さんが羽繕い中だ。正にのんびりとした平和な空気が漂う。
無論、爺さんの頭の中はのんびりなんてもんじゃないが。
しかし、記念日は明日だ。
どうやって媚薬を手に入れるかが問題なのだ。
当然、無味無臭の媚薬が必要である。鼻の良いギルベルトに嗅ぎ分けられでもしたら、後が怖い。性的な意味で超怖い。
『さて、どうしましょう?台湾さんに頼むのが確かな方法でしょうが、あれこれとネタを強請られそうですし。やはり自国で…?』
菊はウンウンと頭を悩ませながら、卓袱台の向こうに見える暢気なギルベルトの後頭部を見つめた。
ピョンと一房跳ねているのは先程までコタツで寝ていた跡…所謂寝癖がついている。
『…ッ、なんて可愛いらしいっ!』
寝癖にさえ萌えを覚える菊はハッとしたように手元の緑茶を飲んだ。またもやギルベルトの可愛らしさに思考が流されてしまうところだった。罪深い伴侶である。
「なあ菊!」
突如ギルベルトが顔をこちらにぐるりと向けて名を呼ぶ。バランスを崩したタマが迷惑そうな鳴き声を一声上げて菊の隣に寄り添った。
「!、な、何ですか突然…」
「明日海行こうぜ!」
菊の台詞を遮り、食い気味にアウトドアへと誘いを持ち掛けてきたギルベルトに菊の眉間に皺が寄る。
「あの、お言葉ですが今の季節をご存知?」
「あ?冬だろ?」
キョトンと菊の台詞が可笑しいとばかりにギルベルトが頭を捻った。
「良かった正常ですね。えぇ、そうです。まさに冬本番。こんな寒空の下に居るだけでも凍えそうなのに海になんて行ったら凍死しちゃいます」
湯呑みを卓袱台にそっと戻し、寒中水泳なんて心底嫌だとギルベルトに訴えた。
こちとら老体だ。脂肪も筋肉も薄いのに海になんて行ったら、きっと凍死するに違いない。
更に菊は頑固で意地っ張りな所がある為、口には出さないが明日は記念日でもある。よもや忘れた等と言われやしないかという焦りも生まれた。
「お前な、国なんだからそんなヤワじゃねぇだろ?大体お前、昔なんか俺んとこ来て吹雪いてる中で乾布摩擦やってたろうが。ってかよ、別に寒中水泳に誘ってる訳じゃねえし」
おや?と菊は意外な反応に目を瞬かせた。
ギルベルトは先程まで見ていたスマホの画面を菊に突き付けてくる。
「…えーっと、貝殻…ですか?」
突き付けられた画面には貝殻の画像が並ぶ。
しかし貝殻の画像を見せつけて来て…あ、まさか…。と菊は頬を引きつらせた。
「あの、まさかとは思いますが…貝殻拾いしたいんですか?」
するとギルベルトはパァアッと音が付きそうな勢いで表情を明るくさせると大きく縦に頷いた。
「Ja!行こうぜ!菊と行きてえ!!」
頬を染め、子供のように目をキラキラと輝かせて訴えてくるのに、どうして断れようか。
記念日だろうが愛おしい人が貝殻拾いをご所望ならば全力で答えるのが伴侶の努め。
「分かりました。行きましょう」
「やりぃ!ありがとな菊!!」
「(嗚呼もう!可愛い!)えぇ」
これも惚れた弱み…いや、菊は惚れた腫れた以前にギルベルトの存在そのものに弱い。美しいイケメンは罪深いのだ。

最早菊の頭の中に媚薬の事等塵ほども無かった。



そして現在ーー

雪がチラつき、冷たい潮風に吹かれながら、まだ7時になったばかりの早朝…当然の如く貸切状態の浜辺で貝殻を探している。
背中とお腹にカイロを貼り付けている為、お腹と腰は暖かい。だが、足と手の指先が冷たくて悴む。ついでに奥歯がガチガチと震えていた。
湿り気を帯びた砂を手袋の無い人差し指でサリサリとしてみる。これが晴れてさえいれば、この砂も辛うじてサラサラとしたものだった筈だ。生憎今日は一日雪の予報。砂が湿り気を帯びているのも仕方ない。
そんな菊の1人分空けた隣ではギルベルトが寒さなんて無いかのように楽しそうに長い腕をあちこちに伸ばして砂の上を探っている。
寒さに強く、尚且つ楽しそうなギルベルトが羨ましくも恨めしく、そして可愛くて堪らない。撫でて差し上げたいが、今はそれどころではない。
『あぁ…困りましたね。結局今年も去年と同じコースになりましたよ。まあ、昨年は海に来るなんて事は無かったですがね…』
可愛らしい伴侶を隣にして菊は遠い目を晒しながら思考に耽る。
せめて今日の昼食は豪華な手作りにして、午後からお馴染みの旅館に1泊ですね。
そんな菊の隣りではギルベルトが軽快なリズムで鼻唄を披露している。
ザッザッと砂を掻き分けるギルベルトの長い指先は砂に塗れ、その表情はキラキラと無邪気に輝いていた。
『普段はカッコイイのに、今は可愛いなんて、これギャップ萌えじゃないですか?堪らん…!』
無表情ながらも胸中でしっかり萌えながら、冷たい砂を探っていた指先に硬いものが当たる感触がした。あら?と菊はもう一度先程硬いものが触れた場所を探った。
冷たい砂を掻き分けて、漸く見つけたその硬い物を指先で摘み上げた。
「…おや、これは?」
菊の呟きにギルベルトが顔を上げる。
「ん?なんか見つけたか?見せてみろ」
スッとギルベルトに見えるように摘み上げた物を差し出せば、ギルベルトは「おぉ!」と口角を上げた。
「これ、シーグラスだな!早い話が陶片。時を重ねて海の中を転がって角が削れるだろ?そしたら、こんな丸いフォルムになるんだぜ。光に当てたら綺麗だし、中々良い色だな!こういうシーグラスも集めるぜ!」
ギルベルトの説明を聞きながら陶片を見る。青よりも淡いサファイア…いやサファイア程の透明度は無いが、澄み渡る青色を思わせる色合いは綺麗だ。この広大な砂浜に一体どのくらいあるのだろうか?そう思うとワクワクとした感情が疼いた。
「何だか、宝探しみたいですね」
「お?楽しくなってきたって顔だな?見る奴にとっちゃゴミだけどよ、コレクターからすれば宝なんだぜ!俺たちは今日その宝を探すハンターな!俺様が隊長!!」
ニカッと夏の太陽の様に笑うギルベルトに菊は春の様に穏やかな笑みを浮かべて頷いた。



此処では桜貝が多かった。
他には少量のシーグラスとヒオウギ貝という扇型の白い貝、ホタテかと見紛う形のオレンジや濃い紫色のイタヤ貝を見つける事ができた。
時間にして3時間弱だろうか。
既に晒されている肌という肌に感覚が無い程冷たくなっている。
寒くとも、宝探しをしていると思えば好奇心が勝り、時間や寒さを忘れて没頭していた。
短絡的な思考だったからか、好奇心が疼いたからか、はたまたギルベルトが居たからか、すっかり貝殻拾いを楽しめていたのだ。
2人で集めた貝殻は決して多くは無い。
だが、ギルベルトの片掌いっぱいになる程には収拾出来た。
砂浜から程近い公園のベンチで暖かいコーヒーを買って来て飲むと、いつもより熱く感じるが美味しいと思えた。
菊がホッと息を吐けば白い吐息が浮かび風に乗って搔き消える。
すると隣のギルベルトがガサゴソと収拾した袋の中を覗き、中の物を1枚、目の高さに摘み上げた。
それは、元はビール瓶の様な濃い色だったのだろう琥珀色のシーグラスだ。
「この色、菊の目の色に似てるよな」
摘んだシーグラス越しに菊の瞳を見つめてくるギルベルトに菊は目を丸くした。
「何ですか?突然…」
「ん?光の加減で輝く琥珀色が似てるって話」
慈愛に満ちた朝焼けの瞳を細めて微笑むギルベルトに菊の心拍数が急上昇した。
なんて心臓に悪い顔をするのだと理不尽に眉を寄せる。
「でも、私だけじゃ無いです。アジアの人であればみんな一緒でしょう?」
つい、羞恥心からツンとしてしまった。
もっと素直になれないのだろうか?と何度自責の念に駆られた事か。何年経とうともギルベルトに弱く、素直にもなれない。
そっぽを向く菊にギルベルトは小さく笑うと、シーグラスを袋に戻し、ツンとそっぽを向いた菊の頬を包み込むと此方を向かせた。
「!」
「ばーか、…可愛い奴」
まるで見透かされているかの様な表情と口調にキュッと胸が詰まる。
ギルベルトは更に菊の瞳を覗き込む様に顔を近づけた。
「んむ…!」
チュッと軽く当たるだけの短いキスをすると、ギルベルトは菊の額に自分の額を突き合わせてボヤける瞳を優しく見つめた。
「同じなんて事無えだろ?この瞳はお前しか持ち得ねえよ。ありのままを映し出すこの瞳はな。今は俺の目の色と朝日、それから空の色を映して、万華鏡の世界みたいに輝いてる」
「…!!??」
何だってこの人はいきなりロマンティックイケメンを発揮するのだろうか。悪友のラテン気質でも移ったのかもしれない。誠、心臓に悪い!
咄嗟のことに菊の頬は真っ赤に上気し、打ち上げられた魚の様に口をパクつかせる事しか出来ない。
「〜ブハッ!!」
そんな菊の様子を前にギルベルトは堪え切れないと腹を抱えて笑い出した。
呆気にとられた後、あんまりな雰囲気の崩壊に頬を膨らませる。
こんな時に本当に…っ!と思うが、これが菊の愛しているギルベルトその人なのだ。
「…もう!!いつまで笑ってるんですか!!」
「ヒャヒャヒャ!!わ、悪りぃ!…グッ、だってッ、お前…ッ!ブフォ!!」
笑いを堪えようとしている様だが、抑えきれない笑いは波打つ唇の隙間から吹き出す。
中々収まらないギルベルトの笑いのタネが面白くない。
そこで涙を浮かべて笑うギルベルトの頬をグワシッと両手で鷲掴み…いや包み込み、キョトンと目を丸くしたギルベルトに顔を寄せる。
先程の様に朝焼けの美しい瞳に自分の姿が映し出されるのをどこか満足気に見つめ、いつもより声を艶やかにした。
「…もう、黙って」
途端にギルベルトのいつもはピンと伸びている背筋がふにゃりと軟体動物の様に崩れた。
菊は愉悦に笑むとギルベルトの鼻先にチュッと可愛らしいバードキスを送り、手を放す。
「〜ッ、お、おま!お前ッ…!いきなり!!!」
あわあわと顔全体を真っ赤に染め上げたギルベルトは笑みを浮かべる菊に何か言ってやろうとしたが、結局沸騰した頭の中では文法も単語も上手く組み立てられなかった。
「ふふふ、可愛い人」
「!?!?ぐっ…!!」
更に追い討ちをかけて来る艶やかな伴侶の台詞にとうとう腰が砕けた。



すっかり冷え切った手の先とつま先を擦り合わせて炬燵で暖をとる。
背筋を若干丸くした菊は卓袱台に顎を乗せて止まらない何度目かの溜息を吐き出した。
はぁ。と大きな溜息は静かな居間に反響し、より物悲しい気持ちになる。
ポツリと居間に一人ぼっちな菊は先程から鳴らないスマホを見つめた。
「…今日は何の日か忘れちゃいました?」
恨めしげにスマホにぼやく。
当然ながら返らない返答にムッと唇を引き結び、今は何処に行ったのか分からないギルベルトを想った。
貝殻拾いから戻るや否や、ギルベルトは拾った貝殻を手に「ちょっと行ってくる!」と快活な笑みで宣言してきたのだ。
呆気にとられた菊が放心しているうちにギルベルトはあっという間に外へと飛び出して行った。
あれから既に4時間は経とうとしている。
せめて豪華にしようと決めていた昼食は一人茶漬けに代わり、毎年恒例となったが午後から行こうと決めていた温泉旅館にはキャンセルを伝えた。腹立たしい事この上ない!
一体何処で何をしているのか、菊が連絡をとろうと電話をかけても電源が入っていないのか電波の届かない所に居るのか繋がらない。当然ながらギルベルトから一度も連絡も無い状態で今日という記念日を一人ぼっちで寂しく過ごしている。
怒りと不安と焦燥が綯い交ぜに押し寄せて感情のコントロールに苦戦した。こんな感情もギルベルトの行動もすべてが初めての経験だった。
まさか…、もうドイツに帰ってしまったんじゃ…?そんな事有り得るのだろうか?弟であるドイツから緊急の呼び戻しがあれば彼は直ぐに飛行機に飛び乗るかもしれない。だから携帯も繋がらないのでは?…ならば、仕方ないではないか。だって彼が一番に考えるのはいつだって弟である。弟と自分が同時に天秤に掛けられたら…等と思えば心にどんよりとした暗雲が広がり、嘆くような大雨が降った。
カレンダーを見上げれば、24の数字に赤いマーカーで囲まれた円。
急にその浮かれていた頃の自分が恥ずかしく思えてくる。良い歳をして、あんなマーカーで囲って。
キュッと唇を引き締めたまま、勢いよく立ち上がると1月のカレンダーをビリッと破り、手の中でグシャグシャと丸め込んだ。
「…ッ、馬鹿みたい」
ギュッギュッと小さく丸めたカレンダーをゴミ箱に投げ込むと、また這い寄る自己憐憫。
今ここに一人立っている事が酷く惨めに思える。午後からの予定も踏まえて愛犬と愛猫を今日から二日間、ペットホテルに預けているのだ。その小さな存在が側にあるだけでも少しは救われただろうに。
モヤモヤと立ち込めてくる黒い感情に眉根を更にキツく寄せた。
決して泣いてなるものか。と拳を握りしめて堪えた。
明日連絡があったら…いや、無くても此方から連絡をとって怒鳴りつけてやっても良いだろう。

《誰よりもお前を愛してるぜ!》

ふつふつと沸いた怒りは、記憶の中のギルベルトの笑みにより鎮火され、急激な喪失感と悲しみに覆われた。
ズルい。こんな時にギルベルトの好きな表情と嬉しかった言葉が浮かんでくるなんて、彼は本当にズルい。
菊はシュンと肩を落とし、頭を垂れると足袋の先を見つめながら呟いた。
「…ギルベルト君の、おたんこなす…、あんぽんたん…俺様馬鹿…、ばか…」
「だぁあれが俺様馬鹿だって?」
呟く様に悪口を吐露すれば突如背後に気配を感じた。同時に不機嫌そうな掠れた声音。
ビクッと肩を跳ねさせた菊は目を丸くして振り返った。
「…ッ!?あ、ぇ????」
そこには頬と鼻頭と耳を真っ赤に染めたギルベルトが仁王立ちして菊を睨み下ろしていた。
「えっ…、なん、で」
「ただいまっつっても出て来ねえから何かあったんじゃねぇかって心配してよ。気配消して来てみたら、お前…俺様の悪口の羅列とはな…随分じゃねぇ?」
信じられない物を見るかの様な菊の表情にギルベルトは釣り上げた眉をフッと下ろし、優しく微笑んだ。
「なんてな!一人にして悪かった。ほら、ただいま菊!」
バッと両腕を広げて迎えるギルベルトに菊は堪らずその広い胸元に飛び込んだ。今は羞恥心よりも帰ってきてくれた安堵感の方が大きい。
「〜ッ、おかえりなさい…」
ギルベルトは素直に飛び込んで来てくれた菊に驚いたが、僅かに震える肩を見遣り、口を閉ざすと温める様に更に力を込めて抱き込んだ。予想以上に不安にさせてしまったと罪悪感を覚える。
ギルベルトは温かな菊の耳に唇を寄せて、小さくキスをすると自分の冷たい頬を艶やかな黒髪の側頭部にくっ付けた。
「わりぃ…。思ったより手間取っちまった」
「!、どうかされたのですか?」
菊がチラと窺う様にギルベルトを見上げる。
もしや、自分の預かり知らぬ所で揉め事でもあったのだろうか?と不安が過ぎったのだ。
菊の不安気な眼差しに気付いたギルベルトが口元に笑みを象った。
「そんな危ねぇ事じゃねえよ。貝殻拾っただろ?アレを加工してきた。シーコーミングの教室行って、菊の事を想いながら、コレをな…作った」
そう言うとギルベルトは片手に持った紙袋からB5サイズの箱を取り出した。可愛らしい赤いリボンが右上の隅に鎮座している。
ギルベルトが箱から中身を取り出せば、ガラスプレートの中に拾い集めた貝殻やシーグラスが配色良く配置されていた。
「…これ、」
ギルベルトが差し出したガラスプレートをそっと受け取り、菊は隅々まで目を走らせる。そして中央部で目を止めると、目尻を弛ませた。
ガラスプレートの中央には菊が最初に見つけた空色の美しいシーグラスがハート型に削られていた。その周りに桜貝の桃色、扇貝の白やオレンジに紫、更に研磨して透明度を上げたシーグラスが中心を囲む様に配列されていた。
そして菊の目を奪ったのが、中央のシーグラスに薄く書かれた24の数字。
ガラスプレートに釘付けとなった菊を背後から囲む様にギルベルトが腕を回す。
「…桜貝の数、数えてみろよ」
ギルベルトの長い指がプレートの上をなぞる。
「?、はい。1、2、3……」
菊がギルベルトに促されるまま、数を一つ一つ数えてみれば、桜貝の数は24。
「…え?ギルベルトくん…」
「記念日だからよ、何か形に残したくてな…、つっても、俺様には豪華なプレゼント買えるだけの金無えし、毎年お前がプラン考えて、金出してくれてるだろ?だから、今度は俺がって決めてたんだぜ。まあ、手作りだけどな。そこは許せ」
「…なんて心臓に悪い…」
ガラスプレートを大切に胸元に抱き込むと、皮肉めいた事を吐き出してしまった。だが、その声音は安堵し切った優しい声音だ。不安になった分、少しばかりの八つ当たりは勘弁してほしいと思う。
「ん。不安にさせちまって悪かった。なあ、菊…」
ギルベルトが菊の肩を掴み、向かい合う様に体制を整えると、ゆるゆると滲んだ琥珀色を見つめた。
「?」
「これから先も、菊と共に在りたいし、楽しい時に笑って、辛い時に泣いて、菊の支えになりたい。俺様の深過ぎる愛はいつだって、これからだって本田菊にのみ注がれるって事をちゃんと覚えとけ。1人になんてさせねえよ」
朝焼けの瞳が強気な口調とは違い、優しく緩まった。
「ーーッ、はぃ」
ツンと鼻先を痛めた菊の返答は小さく震えたが、しっかりとギルベルトの耳に、心に届いてくれた。
「ぶふっ!おっ前な!」
クックッと笑いながら、菊の額をギルベルトが長い指先で突っついた。
つられるように菊が笑うとギルベルトはまた己の胸元に菊を閉じ込める。
「…お前よー、1人不安になってんなよ。忘れたのか?あの日の事…」
ユラユラと菊を抱き締めたまま左右に揺れ動けば、自然とゆったりとしたチークダンスとなる。
菊はモソモソとギルベルトのダウンジャケットの中から顔を出すと、目をパチパチと瞬いた。
「あの日?ですか…」
訳がわからないといった様子の菊にギルベルトは大きな溜息をついた。
「マジかよ。ほら、あの日だよ。10年目の記念日の夜。お前が俺様の事を如何に愛してるか告白してきた夜な」
「…10年目の…夜…告白…、あっ!!」
やっと思い至ったのか、菊は茹で上がった蛸の様に真っ赤に染まった。


ーーそう、確かあの日は、珍しくこの俺様何様ギルベルト様が弱気だった10年目という節目の夜。

あの夜は、ドイツで過ごした。
ギルベルトの弟であるルートヴィッヒの計らいで、静かな森の中にあるコテージを貸し切って貰って、二人きり過ごしていた。
バルコニーに設置されていた木製のベンチに座り、寒空の下でホットワインを飲みながら、美しく雪化粧した木々や全てを映し返す湖を眺めていた時の事。
突然ギルベルトが深刻な顔つきで告げて来たのだ。
「なあ?菊は本当に俺様で良かったのか?」
菊は一瞬、何を問われているのか理解出来ずに目を丸くする。
「…なんつうかよ、お前に俺は相応しいのかって、思ってよ…」
漸くギルベルトの言わんとしている事を理解した菊は、言葉の真意を探ろうとギルベルトの瞳を見つめた。
「…なんです?突然、そんな事…」
菊の困惑が伝わったのか、ギルベルトは一瞬だけ視線を落とすと、そのままポツリポツリと小さく話し出した。
「…うん。今更だけどよ、俺は地位も名誉も金も無え。だからお前に喜んでもらえる気の利いたサプライズなんて出来ねえ。ルッツに頼らねえとこんな所にも連れて来てやれねぇし、高級なレストランのディナーだって、高級旅館の宿泊だって、海外旅行だって…お前みたいに何もプレゼント出来ねえ。それでも、俺はお前の隣で居たいと願っちまうんだ。…こんな俺が…嫌か?」
「ーーッ!!」
真面目な顔で見つめてくるギルベルトの朝焼けの瞳の中に不安な影を垣間見ると菊は堪らなくなってギュッと眉根を寄せた。沸き起こった怒りの衝動のままギルベルトの胸倉を掴み寄せて力の限り睨み上げる。ホットワインが地に落ちようが構わない。
「ぅお!?」
「〜ッ貴方は!!!」
突然大声を張り上げた菊にギルベルトは目をこれでもかと丸くした。
菊が眉を釣り上げて睨むなんて、師弟時代以来の事である。
「貴方は馬鹿なんですか!!地位も名誉もお金も無いなんてそんなの最初から分かってます!それ等があれば甲斐性があるというのですか!?私はそんな簡単に貴方を見限ったりしません!私の想いを見くびらないでください!!私は…っ!私は!貴方が!ギルベルト・バイルシュミットだから!!!…この世に1人だけの貴方だから…っ、だから一緒に居るんですよ!!共に在りたいと願ったから貴方のプロポーズにも頷いたんです!!私の…っ、私の最愛の人は、貴方以外に、存在しないんです…ギルベルトくんじゃないと…駄目なんです。ギルベルトくんが傍に居るなら、他に何も要らないんです…」
「…きく」
菊はギュッとギルベルトのブランケットを掴んだ。震えてしまう声音を我慢して、ギルベルトを見上げる。
「ねぇ…、何も無いなんて言わないで下さい。貴方はドイツさんとアメリカさん、そして私を導いた大きな翼を今も持ってるんです。貴方だけが持ち得る計り知れない程の愛を…、深過ぎる愛を…私は知っている」
「!」
今にも零れ落ちそうな涙がキラキラと光る。
ギルベルトは堪らず菊の身体を掻き抱いた。息を詰める菊に分かっていながらも、力を緩めてやる余裕が無かった。いや、緩めてやるものか、離して溜まるかとばかりに力を加えた。
菊の指先がそっとギルベルトの後頭部に伸び、優しくその柔らかな銀髪を撫でる。
「…菊、きく…ごめんな?…ありがとう…」
「〜、馬鹿ですね…私の、愛しくて、可愛い人」
ツゥと伝う涙の筋は暖かい涙だった。



「まだ…そんなに逐一覚えてらっしゃるんですか?」
菊の瞳は羞恥から潤み、頬は赤みを増していた。あの頃の情熱的な自分は記憶の片隅に追いやっていたのだ。あんなにも感情を剥き出しにしたのは、ギルベルトとの師弟関係以来の事。今思い返すと、やっぱり少しばかり恥ずかしいのだ。
「あったりめえだろ?永久保存版だぜ!」
ギルベルトが嬉しそうに歯を見せて笑うと、菊の身体を抱きしめ直した。
永久保存版…どうにか記憶が薄れてはくれまいか。とも思うが、今も変わらず想ってくれているならば良いか。と小さく笑った。

菊の胸元には貝殻が詰まったガラスプレートが記念日を迎えた2人を祝福していた。




シンと静まりかえった寝室で菊はそっと目を開けた。
障子窓の向こうは快晴。
眩しい陽光が畳を照らしている。
背後を振り返れば、ギルベルトの美しい顏がある。閉じられた瞼と白銀の睫毛はいつ見ても美しい。
規則正しく上下する胸と呼吸は彼の深い眠りを報せる。
菊は徐にギルベルトの剥き出しの肩に手を置いた。外気に触れていた為、いつもは熱いくらいの肌が冷たくなっている。
そっと布団を引き上げて、その肩に掛けてやると、また布団の上からポンと優しく手を置いた。
『あの頃の貴方は私よりもずっと頭を悩ませていたんですよね。今年は手作りのガラスプレートなんて…、手作りの方が嬉しいに決まってます』
菊の様に金がある訳じゃない。更に言えば亡国であり、他国が持つ物を自分だけが持てないという悲壮感を彼は抱えて生きている。そう思えば菊の胸は切なさで締まった。
『…どうか、貴方は、貴方のままで』
菊は祈るようにギルベルトの額に唇を寄せた。
「なに可愛い事してんだ」
唇を離した途端、ギルベルトの瞳が菊を捉えた。
「おや、起こしてしまいました?」
ギルベルトは腕を伸ばして菊を抱え込むと「ん、起きた」と囁く。それにクスクスと笑って、菊はギルベルトの背中に腕をまわした。
ギルベルトの胸元は暖かく、いつだって幸せな気分に浸れる。
「おはようございます、ギルベルトくん」
「おはよ、菊」
ギュウギュウと隙間も無い程抱きしめ合うと、またどちらともなく笑い出す。
「俺の幸せは菊と共に生きる事だぜ。だから今、すんげぇ幸せ」
トクトクと刻む心音を耳に、菊は溢れる程の愛情を込めてギルベルトを抱きしめた。
「…私だって貴方が居ればいつだって幸せですよ」
いつもは言えない素直な気持ちを言葉にすれば、ギルベルトが菊との位置をぐるりと変え、その身体を組み敷いて乗り上げてきた。
「…俺の独占欲も執着心も全部菊にだけだ」
真っ直ぐ注がれるギルベルトの眼差しに菊の琥珀が熱を帯びる。
「ふふ。そうじゃ無いと、嫌です」
「言うじゃねえか…上等だ」
引き寄せ合う様に顔を寄せれば、自然と唇が重なった。

『この狂おしい程に(お前)(貴方)を求める気持ち、身をもって思い知れば良い』

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